世界が不確かで覆われたとき不安や孤独に襲われたとしても、我々は言語不信に陥って誰か「メディアや権力者」の言葉に依存してはならない 言語の可能性こそ信頼し、言語の豊饒さによって触発される「迷い」を贈り物として祝福するべきではないか? 迷いが破滅に突き進む未来を変えるきっかけかも
迷いというのは必ずしも断つべきことなのか?ないほうがいいのか? 迷いの感覚は道徳的な贈り物であるという意見がある 迷いは足を引っ張るとか目を曇らすとか否定的なとらえ方が多いと思うが 迷いとは現状に違和感や疑念を持つから生まれるもの。蓋をしてしまうのは自らを否定することでもある