楓に、これまで知り得たことのあらましを伝えた。 預かった日本画は絵そのものより、和紙が使われていることが手がかりとなった。 真偽は別として検索アプリを使い、特徴的な和紙と牛皮から作った膠が絵の具の定着に使われていることがわかった。 そして、その日本画を描く画家がいることも知れた。
折田楓に、東京国立近代美術館のレストランで手がかりとなる東京藝術大学の教授牧口雄介と面談のアポを取っていることを伝えた。 「いい子にしてくれていれば、イタリア料理をご馳走する」 楓の瞳が輝いた。 <湊川探偵事務所 終わりは突然に 一章 了>
女性は新幹線のぞみの指定席の乗車券を持っていた。 「それは12号車の指定席ですね。ここは2号車です。自由席ですから、空席であればどの席に座ってもいいのですよ」 「お隣は空いていますか?」 そうだと答えると彼女は私の隣の通路側の席に座った。 帽子とサングラス、マスクを着けていた。
東京藝術大学美術部絵画科大学院第2研究室に電話をすると、研究室の秘書が応答した。 有名美術誌の記者を名乗り、美術とグルメの特集を組むことになり牧口雄介教授に登場願いたいが可能か伺ってもらいたい旨伝えた。 牧口は疑うこともなく、面談の場所に東京国立近代美術館のレストランを指定した。
検索アプリが教えた画家の連絡先は、馴染みの名簿屋の工藤に問い合わせた。 東京藝術大学美術部絵画科大学院第2研究室の直通電話番号と日本画素材研究の権威牧口雄介についての情報が必要だった。 工藤は必要最少時間で直通電話番号と牧口がグルメだということを教えた。 工藤に謝礼の額を伝えた。
天与の自由時間を使って父の素性を調べることにし、姉に頼んで探偵さんに依頼した、と答えた。 メディアに追い回されたりこれから問われかねない問題はストレスになっていないかとの疑問には、その程度ではスタートアップの起業家はやっていられないのだと、答えた。 憔悴した様子は全くなかった。
姉とは今回の自分の騒動をきっかけに会うようになり、メディアに追い回されるようになってから姉のマンションに匿ってもらっている。 母が半年前に膵臓癌で亡くなる遺言として日本画を託された。 母は、その作者があなたのお父さんだと言った。 自分としては、いまさら父が誰であってもよいのだが、
今回の出張の行き先は東京だった。 折田楓を説得することは諦め、東京までの残りの時間は折田花蓮からの依頼内容の確認といくつかの疑問の解決に当てた。 依頼内容は間違いないと答えた。 楓と花蓮は母の女手一つで育てられていた。 姉の花蓮は18歳で家を出ていたが、以来連絡は取り合っていた。
世界が善意ばかりで出来ていないことを理解しなければならないのは私の方かもしれなかった。 「今日の移動は、あなたから依頼された日本画の作者の手がかりを得るために東京に行く。大人しくしておいてくれるかな?」 「はい。探偵さんのおじゃまをすることはありません」 「それはありがたい」
新大阪駅で八割方の席が埋まり、京都駅で外国人旅行者と思しき乗客は全て下車、同じだけの外国人乗客が乗車し、その他の乗客とで席の全てが埋まった。 この間、私は折田楓に世界は善意で出来上がっているのではないことを説得しなければならなかった。 しかし、彼女は私の話を全く取り合わなかった。
同じ列の三人掛けの席にPCで仕事をしているサラリーマン風の男とその連れの男、前後方の席に子ども連れのアジア人の家族数組、白人バックパッカーの仲間数人を確認した。 スマホを操作しているか、いかにも疲れたといった様子で眠っているのか目を閉じている乗客で半数の席が埋まっていた。
「あなたは探偵には向いていないようだ」 「変装したつもりなんですが」 彼女は肩をすくめてみせた。 「あなたたち姉妹は突然現れるのが習性なのか?」 「姉から訊いてもらっていると思うのですが、直接お伝えしたくなったので」 「それなら最初からそうしてくれればいい」 「申し訳ありません」
「どうしてですの?」 「あなたの騒動の巻き添えはくらいたくない。あなたから依頼の仕事をすまさなければならないのだ、折田楓さん。あなたは少なくとも兵庫県下では現在指折りの有名人で、メディアの格好の取材対象だ」 「私のことわかりました? ご迷惑をおかけするつもりはないのですが」
「悪趣味だし、かえって目立っている」 彼女は悪戯っぽくクスリと笑うと幅広の鍔の黒色の帽子をとった。 メディアプラットフォームの写真と映像でしか見ていないが、カメラの向こうの視線を意識した溌剌とした笑顔は、折田楓に違いなかった。 彼女を窓側の席に座らせ、景色を眺めているよう伝えた。
上着には明るい水色のパステルカラーのコートを着ていた。 芸能人が変装でもしているのかと疑ったがそうではなかった。 「逃走中ですか?」 「御名答」 と言って、彼女はマスクとサングラスをとった。 「そのセンスのない帽子は、あなたの好みなのか?」 「お好みではありませんか」
クリスマス前の新幹線乗車ホームの混雑はなかった。 乗車した車両にも空席が目立った。 席の空いた二列席の窓側に座り、車窓から景色を眺めた。 移動のときにスマートフォンやPCの画面にかじりつく趣味はない。 「あの、この席はどこでしょうか?」 どこから現れたのか、女性が声をかけてきた。
湊川探偵事務所 終わりは突然に 一章 年末の帰省ラッシュにあわないように出かけた。 新神戸駅の券売機で新幹線自由席乗車券と特急券を買って上りの、のぞみに乗った。 交通系キャッシュレスカードは持っていない。 同じ車両に乗り合わせたのは、数人のビジネスマンと外国人旅行者だった。
この時点で私の体力は限界だった。 腹ごしらえをし、アパートに帰り、もう一眠りしようと思った。 次の仕事の為に必要なことだ。 私のことを納得してからは、彼女も不必要な時間は望まなかった。 事務所を出て近所の食堂に入った。 置いてある新聞もテレビのニュースも一週間前と変わりなかった。
彼女から依頼の内容のあらましを訊いた。 連絡先にラインを指定され、QRコードを使ってお互いを登録し、そのことで彼女の現在の職業を知った。 楓さんの身の安全は確保されていることを確認した。 私の日当と必要経費の額のあらましを伝えた。 博多の調査内容をまとめ依頼主に伝える必要がある。
安物のコメンテーターは、これからの選挙はエンタメ化が必要だと真顔で述べていた。 悪い洒落としか言いようがない。 疲れているのだ。 食事をすませキャリーバッグを引きずって地下鉄湊川公園駅に向かった。 福原の冬の空は蒼く透き通っていた。 <湊川探偵事務所 終わりは突然に 序章 了>
テレビのニュースではコの字型に座った閣僚が映され、山出しのアンパンマンと風刺画並に膨れ上がった風船が耳打ちをし合っていた。 続けて兵庫県知事がメディアへの受け答えをしていた。 能面のような表情で、公職選挙法に抵触するという認識はなかったと、官僚としては満点の答弁を繰り返していた。
iPhone16Proの背面は彼女の爪と同じように贅沢にデコってあった。 「お仕事の依頼をさせて下さい。妹からの依頼です」 A4版の書類が入る封筒から数枚の日本画の描かれた和紙を取り出した。 「この絵の作者を探してもらうことは可能ですか?」 「探し出せる保証はないが、可能だ」
博多から持ち帰ったキャリーバッグも持ち上げて見せた。 「私は楓さんを弁護することはできない。そもそも正義を振りかざすことは性に合わない」 折田花蓮はVUITTONのバッグからA4版の書類が入る大きさの封筒とスマートフォンを取り出した。 スマホはiPhone16Proだった。
早く話を切り上げたかった。 「私の仕事は身辺調査が主だ。この一週間、浮気調査のために博多に行ってきたところだ。昨夜神戸に戻り、郵便物などの確認に事務所に立ち寄った」 馴染みの居酒屋で呑み過ぎて、事務所のソファーで眠ってしまったのだと説明した。 呑み潰れたとは言わなかった。
「はい」 「楓さんは小娘ではない。集団リンチしているのはいい大人ではなく未熟な大人だ」 「評判通りの方ですね」 「どなたの評判か知らないが、それが良いものであっても、その反対でも、私は責任をとりかねる」 「お気を悪くされたのであれば、申し訳ありません」
「そのようですね。しかし私どもからすれば、妹がメディアを賑わせているのではなく、メディアが勝手に妹を出汁に賑わっているだけだと思うのですが。いかがでしょう?」 「私は意見する立場にはない」 「いい大人が小娘相手に集団リンチしていてもですか?」 「小娘とは楓さんのことか?」
「それは本名ではあるのですが、私のものではありません」 「それでは、その名刺はどなたのものなのか? そして、あなた誰なのか?」 「私の名前は折田花蓮、楓は私の妹です」 彼女が話す前に私から訊いた。 「折田楓さんとは、今メディアを賑わしている方ですね?」 彼女は小さく頷いた。
「千葉真一は私の本名です。しかし、残念ながら映画俳優でもなければ、極真空手もやってはいない」 彼女は微笑んで、タバコを吸ってもよいかというように電子タバコの器具を示した。 どうぞというように目で促すと、タバコを器具に差し込みフィルターの部分をカチリと歯で折って美味しそうに吸った。
彼女の差し出した名刺には、 私には解読不能なアルファベットのならんだ会社の名前、 CEO KAEDE Orita 携帯の電話番号、 メールアドレス、 LINEのアカウント、 が記されていた。 お互い顔をまじまじと見つめ、 「本名ですか?」と、訊いた。
入り口のドア硝子にも「湊川探偵事務所」と、表記している。 そして今のところ事務所の住人は私しかいない。 「そのようですね」と、応じておいた。 「湊川探偵事務所の千葉真一です」 彼女が名刺を出しやすいように、デスクの引き出しから名刺を取り出し、彼女に差し出した。
デスクの前の来客用の椅子を指し示すと、戸惑いもなく座り、大きめのVUITTONのバッグから名刺入れと電子タバコの器具を取り出した。 「湊川探偵事務所の千葉様ですね」と、念を押すように言いながら名刺を手にした。 「間違いありません」 私の座っている後ろの通りに面した窓にも、
扉を開けて入ってきたのは紫色の薄手のダウンのコートを着た、三十歳前後の女性だった。 ただし、女性がサングラスをしていることと、私は女性の年齢を当てることには全く自信がないので、推定年齢は当てにはならない。 色白の肌の血色の良さが印象的で、健康的で物おじのしない性格のように思えた。
デスクの引き出しから手鏡を取り出して櫛で髪を撫でつけた。 親父に似てきたなと、自分の顔を鏡で見るたびに思う。 それが今の自分にできる唯一の親孝行だと考えるようになった。 余計な感慨にふけるのはよして、来客を招き入れることにした。 「どうぞ。ドアは開いています」
昨日、冬至だとテレビのアナウンサーが言っていたことを思い出した。 底冷えがするのだ。 念のために倉庫から引きずり出していたストーブに火をつけた。 灯油の燃える臭いと火の暖かさになにかしら安堵した。 ドアをノックする音がした。 慌てて身繕いをして椅子に座り直した。
終わりは突然に 序章 意識が少しずつはっきりしてきたことに気づいた。 始まりはそのこともぼんやりしていた。 気分は悪くはない。 機嫌が悪いわけでもないのだ。 しこたま呑んで潰れたはずなのに吐き気をもようすわけでもなく、漠然とした不安がこびりついたままオフィスのソファーで目醒めた。
終わりは突然来る。 一年使っていた電動アシスト歯ブラシが、朝スイッチを入れても動かない。 またまたー、電池切れかー。 冗談ばっかりと思って、数日後にようやく電池を入れ換えるが、うんともすんとも言わない。 そこでようやく気付く。終わりが来たんだと。