私の知る、修道院の修道女の洗礼名が思い出せそうで全然思い出せず、最初、非常に安定していて信頼のおける女性のイメージの洗礼名モニカ・アンナかと思ったら、修道女の方がマリア・モニカと思い出し、修道女の方は、大人の女性らしいというより、知的で女の子らしい雰囲気の洗礼名が付くと気付いた。
私の母はカトリック教徒ではなく、怒りっぽく細かな他人の行動を気にする女性なりに、裁縫や映画等の趣味のある一般市民の中年の女性として、日々母としても市民としても精力的に生きているが、カトリック教会のアンナ・クララという洗礼名の女性は、母でありながら喜び楽しんで生きるように諭される。
カトリックは勿論宗教であると同時に、宗教は苦しむ人々の為に有り、テレサ・クララという洗礼名の女性の信者は、世の中の辛さや苦しみに宗教心を通して感じて接しながら、宗教と神の崇高さにではなく、愛と喜びの価値観の中に、辛さと苦しみを投げ込んで、解消して生きる人生のカトリック教徒である。
クララは美を求める女神の名前だがその洗礼名を付けられて生きる女性は、抽象的な美を求めるのではなく、人生そのものが楽しみで、自分の存在が確実であるという確信の連続が楽しみや喜びで、その確実さが必要なのは反面不安があり、クララと、マリアやテレサが一緒に先に洗礼名に付けられると考える。
世の中、仕事や家族関係のせいで一度心が決定的に傷付いてしまった人々が、羽目を外して酒を飲んで遊ぶ大人というものが、何処か信頼出来ず、怖いとさえ思ってしまうようになるが、カトリック教徒の場合は、その遊ぶ喜びや美しさの要素も洗礼名にして、大人だからではなく、カトリック教徒だから遊ぶ。
スペイン系カトリック教会の洗礼名にもあるが、人間は生きる環境や人生そのものが、全てが常に誠実で、周囲の人々に安堵感を抱いて生きられる素朴な普通さを求めるものであるが、自分を有能で純粋と思えて高い意識と自尊心を抱きたくなるので、そこから成熟して、美や愛らしさを求めなくてはならない。
三文字三文字で一つの生といった洗礼名で、テレサ・クララというのがあるが、テレサという修道女の名前からして、周囲の環境が道徳的で誠実であることを望む姿勢でありながら、クララという洗礼名の楽しみと美しさを求めるのが宗教的価値観というのが、非常にスペイン系カトリック教会の洗礼名らしい。
人間というのは、おそらく非常に高い意識と自尊心を抱きやすい存在で、優秀であるという意識で恥をかくのが苦痛で、それと同時に大人になれず、カトリック教会のテレサ・クララと名付ける女性は、高い意識から物事を見る思考で生きながら、それ以上に、楽しさと美しさを求めて生きることに価値を置く。
名が体を表し切って、その名だけで全ての説明がつくのはスペイン系の洗礼名だが、テレサ・クララという洗礼名について私が考える時、テレサ・クララの本質的な心の持ちようではなく、テレサ・クララから見える周囲の人間関係と、その時心持ちがどう内面にわくかばかりをまずイメージしてしまう。