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土門蘭『死ぬまで生きる日記』を2周する

【‘‘再読のススメ’’】

三木成夫「はらわたと中身の関係は、いってみれば鋳型と鋳物の関係です。鋳物というものは、これはもうれっきとして人類の伝統工芸の世界です。手塩にかけて造り上げるものです。はらわたすなわち内臓を見直す、これ以上の説明はないと思う」

竹内「日本語では『おのずから』と『みずから』とはともに『自(か)ら』である。そこには『おのずから』成ったことと『みずから』為したこととが別事ではないという理解がどこかで働いている。…その交差『あわい』を問うことは日本人の自然認識、自己認識のあり方を相関として問い直すことである」

小林「イマジネーションはいつでも血肉と関係がありますよ。…僕も経験してきたことだが、イマジネーションが激しく、深く働くようになってくると、嬉しくもなるし、顔色にも出ますし、体もどこか変化してきます。本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね」

おおたけしんろう「あるひの ことです。クルリと うしろを ふりむくと、ずうっと きいろい みちが つづいているではありませんか。ジャリおじさんは こうもりがさを もつと、きいろい みちを あるきだしました。なにか、ピンクいろの のそのそが こっちに やってきます」

シーレ「山や水や木や花の身体的な動きを観察しています。至る所で、人間の肉体の内に同様の動きが、植物においては歓喜と苦悩の同様の動きが想起されます。…色彩で絵の質を生み出せることを知っています。極めて親密に、心身ともに、夏に秋の樹木を感じとる。そうした憂いをぼくは描きたいのです」

宇野「川端さんは一番批評におうるさそう…(笑)」川端「いやいや、僕はなんでも気持をむこうに持っていくほうで、感心するほうなんですね。ほめなければ批評じゃないと思うのです」丸谷「僕もそう思います。新しい見方を自分で見つけることが大事になってくる。批評の本道は褒めることですよね」

二十面相「ヘヘン、どうだい。二十面相はどんなことがあったって、へこたれやしないぞ。敵が五と出せばこちらは十だ。十と出せば二十だ。ここにこんな用意がしてあろうとは、さすがの名探偵どのも、ごぞんじあるまいて。二十面相の字引きに不可能の文字なしっていうわけさ。フフフ……」

佐々木「いまちょうど新作の絵本を描いています。『へろへろおじさん』というタイトルで、不条理受難物語なんです(笑)。子どもに『こうだから面白い』というのではなくて、『なんかよくわからないけど面白い』って思ってもらえたら、子ども絵本の新しい地平に踏み込めそうな気がするんです」

友川「まだ小学生へ入るか入らないかの頃、近所の悪童たちに誘われ、四キロの山道を歩いて、汽車を見に行った。往復八キロは、その年頃ではやはり、しんどかったに違いないのだが、『汽車見に行くべ』と言われたときの、ワクワクザワザワッとした気持ちがそれを大きく支えてくれたような気がする」

村上「父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを−現代の用語を借りればトラウマを−息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというものはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある」

小林「詩というものも、考えが違ってきましたね。老年になりますと、目が悪くなり、いろいろの神経も鈍ってきます。そうするとイマジネーションの方が発達してきますね。昔はずいぶん受身でしたよ。向こうに詩がある。それがこの頃では次第に逆になりまして、私のほうからいろいろ想像を働かすのだな」

奈良「うちは割と寂れて…きれいだよ」村上「すぱーんとしているよね。あれは何なんですか」奈良「部屋を見たらその人の頭の中がわかるって言われてて、ゴミ屋敷を見た時にそうだなと思って。制作しているとどんどん散らかっていくじゃない、それが自分の頭の中なんだと思った瞬間に、バッ、ピシッと」

内田「門人の中に理学療法士の方がいて、百歳以上の超高齢者の身体を見ることを研究課題にしています。定期的に彼らの身体を触ってきて、分かったことが一つだけあると言っていました。それは身体認知能力が高いということだそうです。自分の身体の内側で起きている出来事をことばにする能力が高い」

「たろちゃんおはよっ」「おはよう」「たろちゃん座んなよ」「とおるちゃん座んないの?」「うん、ぼく座ってもいいけど座んないの」「えーえーどうして?」「だって立ってる方がかっこいいから」「えーえーかっこいい〜」「じゃああたしも立ってる!」

中沢「俳人は自分の体が動かなくなった時、ものすごい内部運動をし始めるでしょう。芭蕉の最後の句と言われている<旅に病んで夢が枯野をかけ廻る>も、内部でものすごい運動をしています」小澤「止まってしまう寸前の肉体の中で精神ははるかかなたまで進んでいく」

色川「一面の焼け跡で十代の性格形成期に焼け跡の中に突っ立っていたことが胸の中から消えない。家があって畳の上で生活していると思っていたけれど、ははァ、地面というものは泥なんだなとそのとき思った。建築物なんかは泥の上の飾りのようなものでほんのちょっとしたことで消えてなくなってしまう」

内田「薪が燃える匂いって昔はあの匂いがすると夕方なんですよね。夕焼け空になってカラスの声が聞こえて」橋本「豆腐屋がラッパをプーッて鳴らして、夕もやが漂っているころに空にうすい夕焼けの雲がたなびくのと同時になんか煙がくるっていう。なんかすべてが一つになるんですよね、音も空気も風も」

伊集院「9勝6敗論に関しては処世術であって、色川さんは6敗から始めたんじゃないか」村松「なるほど、6敗から9連勝か」伊集院「もっと言うと1勝6敗から8連勝。ではその1勝は何か。軍人のお父さんと二人で手をつないで理想的な父子であったところが1勝の始まりではと思うんです」

坂本「具体的な場面を歌にしようとか思ったことはないですね。もっと雰囲気とか質感に近いものだったりはありますけど。『夏休みの最初の日に目が覚めたときの感じ』とか。だからといって歌詞で『夏休み』みたいなことを言ってしまうと、その『目が覚めたときの感じ』はすべてなくなってしまうわけで」

内田「師弟関係の一番生産的な点は師匠が教えていないことを弟子が学んでしまうことです。師弟関係というのはもっと創造的なもので僕が言ってもいないことを『それは勘違いだぜ』という場合も含めて」佐藤「増幅する」内田「一人ひとりがそれぞれに新しい解釈を創り出してゆく。解釈は自由なんです」

学生「歴史を見つめるということは自己をわかることだと言われました」小林「歴史家ならば自分の心の中に藤原の都の人々の心持ちを生かすという術がなければいけない。歴史家には二つ、術が要る。ひとつは調べる方の術。そして調べた結果を現代の自分がどういう関心をもって迎えるかという術です」

茂木「シンクロニシティというのは外のものと外のものとがシンクロするんじゃなくて自分の無意識と外のものとが呼応すると」河合「絶対そうです。で、無意識で動いているのが外に出てきたりね。その出てきたものの背後には無意識がある。僕らは意識・無意識、全部含めて世界を考えているわけですから」

湯川「群衆の中によく知っている顔が見えると瞬間的に気づきます。誰でもが持つ能力ですが恐るべき能力であります。ある人の顔を覚えておこうと意識的に努力しなくても何度か会っている間にその人のイメージが私の記憶の中にでき上がってしまっている。頭の中では一体何事が起こっているのであろうか」

落合「現象to現象の世界に生きているんですよ。現象を直接取得し、その現象を他者に同じ形で通信する方法を持っている。イルカも建築物についての認識があるかもしれない」清水「建築と音楽は作品に人間がすっぽり入り込むところに共通点がある芸術」落合「でも彼らは形を作る必要がないですからね」

中谷「明治の初めころの話である。勝海舟だったかとおもうが、ある西洋医学の勉強をしている人から、うんこの研究をしているという話をきいた。そして非常に感心して『科学には汚いものはないんだな』といったという逸話がある。これは非常におもしろい話であって、科学の真髄をよくとらえている」

鷲田「日本のきれいとか美しさというのは道徳に近いような」河合「僕も日本の倫理基準は美的判断じゃないかと言ってるの。でも、ものすごく言語化しにくいんですよね。言語化できないということは西洋人には通じないということだから。…けどお互いには割にわかるわけでしょう。不文律的合意がある」

村上「小説を書いていて、死者の力を非常によく感じることがあるんです。小説を書くというのは、黄泉国へ行くという感覚に非常に近い感じがするのです」河合「黄泉国へ行って、それを見てくることを何度もやっていると、自分もどこへ行ったらいいか、どう行くのかということがわかってくるでしょう」

川瀬「何かを言おうとしてその周辺のことを語る言葉はいくらでもあるのに核心を語る言葉を持たないと言うか。…花にも漢語にあたるオフィシャルな花である『たてはな』、日常の自由な花である和語としての『なげいれ』といういわば二重の構造があってそのどちらかだけでは花というのはだめなんですね」

橋本「何にもないただ青いだけの空を、無理やり”きれい”と思い込もうとしているのかな?」などとちらっと思ったりもしました。"ただ青いだけの空"どこに"美しい"を明確にする指標があるのかがさっぱりわからない"青いだけの空"をみて、"美しい"と断定するには、まだ経験がたりませんでした」

三木「或る人間の表情がいつもと少し違っている事が分かる、その理由は何かと尋ねられた時われわれは一体何と答える事が出来るであろう?日常の接触を通して何時の間にか体得したその人間の”いつもの顔”と言うものが無意識の基準に置かれている。では”いつもの顔”とは何を言ったものであろうか…」

小林「人間が人間の分際をそのまま持って相手を考える時にはその人と交わるということになりはしないか。相手の心の中に飛びこむのです。母親は子供を見るのに観点というものを持っていないでしょう。子供の内部に入りこむ直観を重ねるのです。人間がわかるというのは一目で分かることがあるのです」

岡「わかるということはわからないなと思うことだと思いますね」小林「数学を長年やっていらしてこういうふうにいけば安心というような目途というものがありますか」岡「家康がもうこれで安心と思ったようなああいう安心はありませんね。だからそういう心配もすべきものではないと思っているだけです」

石川「その感覚は聞きたいな。何かわからないもののためにつくってるってこと?」川島「そうそう。写真って自分と濃くつながっているけど、でも神聖なものっていう感覚がある。自分が撮っているものじゃない」石川「言おうとしていることはわかる」川島「”ただ通過しただけ”みたいな」

三木「正月、カルタ遊びで、小学2年生の坊主が『ヒサカタノヒカリノドケキハルノヒニ…』とたどたどしくやっている。もちろん、何のことやらわからない。しかし、このひとつひとつの言葉のもつ「ヒビキ」ただそれだけを、先にたたき込んでおくのです。やがてそのような心に育ってくるのですから…」

中沢「吉本さんがご老人のことを超人間といっていることは、思考を開くための一つの突破口だと思います」吉本「言葉の突破口です」中沢「可能性が閉ざされていくのが老人ではなく、むしろ輪廻の中にある身体運動や現象から自由になった心というものが、自分の中で実感される存在が老人である」

山折「赤ん坊の動きを見つめることから岡潔の実験観察が始まる。赤ん坊は生まれてから18ヶ月位になった時、にわかに全身的な運動を始めるのだという。その時が1の発見の時ではないか…それと同時に”全体”も発見しているのではないか、自己(=1)と宇宙(=全体)を同時に体感したのではないか」

色川「オレはあの5年生の時の冷え冷えのほうがなかなか印象的だぞ、なんて思ったりなんかしてね」嵐山「すでにそのくらいの年の時、そう感じていらしたわけですか」色川「口ではくわしく言えないけど、土のしめった感じとか、星空の低くなったような感じとか」嵐山「なるほどなあ、なんかいいなあ」

河合「相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存し得る可能性を持つのである。矛盾し対立するもののいずれかが中心部を占めるときは、確かにその片方は場所を失い抹殺されることになろう。しかし、あくまで中心に空を保つとき、両者は適当な位置においてバランスを得て共存することになる」

内田「原宿の町を歩いていたら向こうから100パーセントの女の子が歩いてくるとかね、うんうん、そうだよなぁって(笑)。体温が下がって、明らかにいま自分は癒されているって思った」柴田「じゃあ、だれでもとても悲しかったら本を読んでみるといいかもしれない。何が効くか?(笑)」

橋本治「孤独と敗北と”美しい”は、なんだか妙な連関を持っていて、それが、普通の人間にあまり”美しい”を言わせない原因になっているのではないか」と思いました。既に私は、「”美しいが分からない”は、自分が思う以上に根深く広範な問題ではないか」と思っていたのです。

岡「言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ、見向きもしない」

河合「偶然性と生きるということを、今、もっと考えていいんじゃないですか。自分の仕事を『偶然屋さん』ともいうてる笑」吉本「関西っぽい職業ですね笑」河合「偶然が起こるのを待っている」吉本「でも、やっぱりそういうのは、自分をたのみにしていないと、目の前をサーッと通り過ぎてしまう」

検察官「何が怖かった」息子「見つかることが。見つかったら自分がひとりになる怖さがあった」検察官「ご遺体が変わっていく様子を見て、何も思わなかったんですか」息子「やはり、かわいそうだと思いました」検察官「周囲に迷惑がかかるとは」息子「もちろん思いました」

養老「タクシーに乗っていたら運転手が言うんだ。同僚が死んでお坊さんが来て『死んだらどうなるんですか?』と聞いたら『死んだらおしめえよ』と言ったって。あれはできた坊主だ。日本人の宗教観をよくわかっている」中沢「仏像も最初はリアルだったのが、だんだんお地蔵様、円空とかにいっちゃう」

岡「本質は直観と情熱でしょう」小林「そうだと思いますね」岡「批評家というのは、詩人と関係がないように思われていますが、つきるところ作品の批評も、直観し情熱をもつということが本質になりますね」小林「勘が内容ですからね」岡「…勘は知力ですからね。それが働かないと一切がはじまらぬ」

橋本「飲み込めた!とかいう快感がないとダメなんです」内田「ある日気づくんです。『あれっ、ないや』って」橋本「誰かに聞かれて『あれどいうことだったの?』『それはね』と」内田「喩え話に使えるときは、消化されて、骨肉化しているんです」橋本「そうだ、俺、やっぱりその前段階が必要なんです」