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徳川家康さま☘️をたどる#49☘️源家康

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天正17年(1589)6月5日は摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名義広を破り南奥州を制覇した日。東側に布陣した伊達軍と西側の蘆名軍は始め蘆名軍が優勢な戦況だった。しかし強い風が西から東へかわり形成は逆転し政宗が勝利した。しかしこれは秀吉が出した私闘を禁じる惣無事令を無視する行動だった。

歴史に名を刻む日本の戦国時代の名将と呼ばれた武将たち

2年前

天正17年(1589)11月24日は秀吉が小田原の北条氏直に惣無事令違反として宣戦布告し諸大名に出陣の準備を命じた日。上野国の沼田領をめぐる北条氏と真田氏の紛争で3分の2を北条領とする調停が成立。しかし沼田城主猪俣邦憲による真田氏の名胡桃城奪取の報に接した秀吉が小田原攻めを決定。

天正16年(1588)10月26日は秀吉の斡旋で和議を結んだことを祝う手紙を家康が伊達政宗に送った日。既に関東より西は秀吉配下にあった。前年に関東・奥州に向けて大名同士の私闘を禁じる惣無事令が関白秀吉の名で出されており伊達・最上・佐竹・蘆名・岩城・相馬らは和議を結ぶことになった。

天正16年(1588)8月22日は北条氏直が秀吉の惣無事令に応じ家康の斡旋で叔父の北条氏規を上洛させた日。氏直の正室は家康の娘であり氏規と家康は幼少の頃共に駿府で人質にあった関係性があった。一旦これで緊張関係が和らぐと北条は従属の条件とした真田との沼田領問題の裁定を秀吉に求めた。

天正16年(1588)10月26日は秀吉の斡旋で伊達・最上・佐竹・蘆名らが和議を結んだ日。既に関東より西は秀吉配下にあった。前年に関東・奥州に向けて大名同士の私闘を禁じる惣無事令が関白秀吉の名で出されていた。実力者が介入する口実を与えることになるので慎重な行動が必要となりますね。