中心をもたない現象としてのゲームについて

書いてみる

人気の記事一覧

中心をもたない、現象としてのゲームについて 第40回 第5章-5.4 遊び-ゲームにおけるルールを循環モデルとして再記述する|井上明人

¥500
5か月前

我々は「事件」の起こらない世界をどのようにして見つめればよいのか|井上明人

¥500
3年前

なぜ異世界は、100周目ではなく2周目なのか|井上明人

¥500
3年前

アジアを羽ばたいてしまっている異世界転生|井上明人

¥500
3年前

キーボードの「沼」から、プラットフォームの「速度」を考える | 井上明人

5年前

創発的現象としてのゲームの二次的フレーム | 井上明人

¥500
5年前

幸福な善人の異世界物語 | 井上明人

¥500
5年前

叙述的共同注意のネットワーク | 井上明人

¥500
5年前

ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(1) | 井上明人

¥500
6年前

ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤) | 井上明人

¥500
6年前

駆け引き(学習説の他説との整合性④-2) | 井上明人

¥500
6年前

認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・後編 | 井上明人

¥500
6年前

認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・前編 | 井上明人

¥500
6年前

リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 前編<番外編> | 井上明人

¥500
7年前

駆け引き(学習説の他説との整合性④) | 井上明人

¥500
6年前

リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 後編 | 井上明人

¥500
7年前

ゲームから物語へ(2) | 井上明人

¥500
7年前

ゲームから物語へ(1) | 井上明人

¥500
7年前

我々はどこまでいい加減なプレイヤーたりうるか?―DQ11における「死」について | 井上明人

¥500
7年前

物語からゲームへ | 井上明人

¥500
7年前

二次的フレームの形成 | 井上明人

¥500
7年前

「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる | 井上明人

¥500
7年前

ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない? | 井上明人

¥500
7年前

ゲームにおける「能動性」という神話:あらためて『FF15』について | 井上明人

¥500
7年前

トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか? | 井上明人

¥500
8年前

プレイヤーのいないゲームは存在しうるか? | 井上明人

¥500
8年前

どこまでが「ゲーム」なのか? | 井上明人

¥500
8年前

学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム―― | 井上明人

¥500
8年前

日常行為としての「ゲーム」を考えるということ | 井上明人

¥500
8年前

概念の中心性――分けることとつなぐこと | 井上明人

¥500
8年前

議論手続きとリサーチクエスチョン | 井上明人

¥500
8年前

政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ | 井上明人

¥500
8年前

ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか? | 井上明人

¥500
8年前