ゲームにおける「能動性」という神話:あらためて『FF15』について | 井上明人
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、FF15のキャラクターの移動シーンをヒントに、〈能動性〉を本質とするゲームにおいて、プレイヤーの意識の外にある、〈ぼんやりとした〉行為がどのような意味を持つのかについて検討します。
井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
第14回 ゲームにおける「能動性」という神話:あらためて『FF15』について
「なぜ俺は『FF15』を遊んでしまうのか?」
「『FF15(Final Fantasy XV)』のような、わけのわからないゲームを俺はなぜこんなに長時間やってしまうのか…」という告解をここ数ヶ月で複数人の口から聞いた。
少なからぬゲーマーにとってこの経験は、衝撃的…というか、何か特殊な困惑のようなものを引き起こしているようだ。
なぜ、そのような困惑が引き起こされるのかといえば、それは彼らにとっての「面白いゲーム」の価値観を揺らがすようなものだからだ。少なくとも『FF15』のシナリオは30代、40代の中年ゲーマー向けではない。ゲームの流れも、刺激的な時間が延々と続くというようなものではなく、息をつく暇もなく興奮が連続するようなものではない。今時の売れ筋大作ゲームと比べると、かなりまったりとした時間の流れるゲームだ。
これは、ある種のゲーマーに戸惑いを生むのは当然といえば当然だろう。
どのようなゲームを「面白いゲーム」だと捉えるかには派閥があるが、一つの派閥は「能動的に」やることがたくさんあって、飽きさせないようなものこそが面白いゲームだというような派閥だ
上記のような要素に反するようなつまらなさを感じさせるのは、RPGのレベル上げだとか、「おつかいクエスト」の連続などだろう。90年代中盤以後、多くの人が「一本道RPG」とか「一本道シナリオ」といった要素をだめなゲームの代表格であるかのように呼んだように、海外でもGonzalo Frascaは、ゲームプレイの際におけるこうした側面をErrand boy syndrome(使い走り症候群)と呼んでいる。同じようなことをただ延々と繰り返すだけのほとんど頭を使わない、ロボットになったかのような時間は、多くのゲームプレイヤーにフラストレーションを感じさせてきた。それゆえに、能動的に様々なことを考え、刺激にあふれたようなゲームこそが面白いゲームなのだという言説は、洋の東西を問わず、強固な位置を占めている。そして、FFシリーズはこういったタイプのゲーマーからはしばしば目の敵にされる代表的なシリーズだったといってもよい(なので、この派閥のゲーマーであったにも関わらず、いまだにFF15をプレイして「意外とよかった」とか言っている人々はかなり付き合いのいい人達でもある)。
こういう派閥のゲーマーたちは、ある時期には自覚的に「ゲェム右翼」と名乗ったこともあった。
ただ、こうした主張が、常に妥当なものではないということはすでに多くの人の実感によって、更新されたはずだ。それだけが本当に面白いゲームの要素なのであれば、ゲームにかかわる説明できない現象がある。
反例としてのソーシャルゲーム
その一つは、言うまでもなく「ソーシャルゲーム」と名指される一群のゲームだ。本連載を読んでいる人には、あまり多くの説明を要しないと思うが、ソーシャルゲームは常に刺激的、というよりも、たまに刺激的なゲームであるという程度のものに過ぎない。
SNSやスマートフォンといったインフラを介して評価を得たゲームにはこうしたものが多い。とある放置系のアクションRPGを指して「ゲームとして楽しいかどうかはわからないけど、やることに対するハードルがあまりにも低いからやめられない」と述べた米光の言葉はある種のゲーマーの実感を見事に示しているように思う。
そして、このような刺激の低いゲームプレイを可能たらしめているのは、ゲームデザインの巧みさだけではなかった。多くの人が指摘するように「スキマ時間」を使ったゲームプレイが可能であるということだ。常時起動のFacebook上や、iPhone上でゲームをするという体験と、TVモニターの前に陣取ってゲーム機を起動して「さぁ、やるぞ」という意識で画面に向き合うのとでは、ゲームに向き合うときの態度がまったく異なっている。
ただ、ソーシャルゲームをプレイするときに刺激が弱くてもよい。刺激が弱くてもゲームプレイが成り立つ。というのはもはや目新しい話ではないだろう。世界中の数億の人が体験したことだ。
能動的な関わりだけが楽しい時間なのか?
ソーシャルゲームのような反例があったのにも関わらず、『FF15』は改めて困惑を生んだ。なぜかといえば、『FF15』はSNSのゲームでも、スマートフォンのゲームでもなかったからだ。
『FF15』の特異なところはいくつかある。その特異性を指す表現の一つは、「『FF15』は『水曜どうでしょう』ではないか」という説だ。この説は、発売直後に評判を呼んだものだが、緊張感のない男数人がだらだらと話しながら車で移動するのも、旅の途中で本来の目的を忘れて釣りだとか、どうでもいいことに力を入れ始めるのも、いかにも、人気旅番組の『水曜どうでしょう』の風景と似ている。というのがこの説のいわんとするところだ。このような説が評判を呼んだことからも明らかなとおり、『FF15』の移動は実にダラダラとした感触を与える。しかしながら、そのダラダラは、ゲームプレイヤーにとって肯定的に捉えられている。
こういった「ダラダラとした移動」がゲームにとって肯定的に語られるというのは、かなり新しい事態だといっていい。
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