ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない? | 井上明人
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回はゲームという現象における「非日常」の重要性を論ずるべく、「マジックサークル」と「非日常性」という概念の整理を試みます。
井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
第15回 ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない?
3−4.ゲーミフィケーションは「ゲーム」ではない?:「非日常」概念をめぐって(学習説の他説との整合性②)
前回まで、「ルール」「ゴール」といった要素と、ゲームプレイ時における「学習」プロセスがどのようにその関係性を把握できるかをみてきたが、次は「ゲームとは非日常的なものである」という基準との関係性をみていきたい。
ただし、このゲームを「非日常」と捉える仕方はルールやゴールをめぐる議論以上に前提の整理が必要となる。ホイジンガはもちろん、なんだったらプラトンまで遡ることも可能な伝統のある基準であり、かなり重要な論点の一つになりうることは明らかだ。しかし、ルールやゴールといった要素がゲームにとって何かしら重要なものであろうということは、ゲームをめぐるほとんどの論者が認めているのに対して、この「非日常」に関わる概念は重要なものであるにしても、論争的なポイントをいくつももっている【注1】。
この節では、まず「非日常」という要素がそもそもゲームという現象にとってなぜ重要かということを確認したうえで、この要素の扱いにくさや複雑性を整理する。その少し面倒な整理をしたうえでなければ、そもそも一体何を議論しようとしているのかがわからなくなってしまうからだ。そして、それらの前提を経たうえで、学習説と「非日常」概念との関係をみていくことにしたい。
まず、この基準の重要性を直感的に示すために、ツイッターで広く拡散されたツイートを引用するところからはじめよう。
昔、先輩の息子さんがポケモンにどっぷりで、先輩の奥様が「ゲームは1日1時間!」「たまには外で遊びなさい!」と注意しても全然やめなかったという
そこで先輩が「ゲームの時間は無制限」「ただし一日X匹ゲットをノルマ」「結果報告は毎日義務」「義務を怠ったら叱責」という方針に転化。最初は息子さんも大喜びだったらしいけど、休日も「ほら!まだポケモンやってないぞ!」と言われるうちに徐々に飽き、無事サッカー少年に転向したとか【注2】
こういった現象はアンダーマイニング効果(Social Undermining) 【注3】として動機付け研究のなかではよく知られている。日常の煩わしいことから逃れうるものとして楽しんでいたはずのことを、あえて日常の煩わしいことの一部に位置づけられてしまうと、人々はとたんにそれをつまらないものとして感じてしまう。
日常の煩わしいことをゲームのように感じることは難しい。「好きなことを仕事にしなさい」という人生訓がひろく共有されているのと同様に、「好きなことを仕事にしてはいけない」という人生訓はあまりにもポピュラーなものだが、この人生訓の言わんとすることはそういうことだ。
ゲームを商売のタネにすること自体が、ゲームの在り方としてダメなことなのではないかという批判もある。たとえば、カイヨワは「遊びの堕落」という一章を設けて、ゲームで商売をしていく人々について次のように見解を述べている。
プロのボクサー、競輪選手、俳優たちにとっては、アゴンやミミクリは、もはや彼らの疲れをいやす気晴らしではない。うっとうしく単調な仕事に変化を与えるための、気晴らしではなくなっているわけだ。それは生活のかかっている労働そのものであり、障害と難関だらけの根気の要る日常活動なのである。彼らがその疲れを休めるのもまさに遊びによってであるが、ただしそれらは彼らを拘束しない遊びなのだ【注4】。
こうした論理の延長線上には、もちろん「日常のなかにゲーム的要素を埋め込む」ことをうたっているゲーミフィケーションも批判の対象に含まれることになる。ゲーミフィケーションはその概念の成り立ちからして「非日常性」という基準とは相性がわるい。
「日常のなかでゲームを混ぜ込んでしまうと、ゲームを楽しむという現象自体がそもそも成立しないのではないか」という批判は、実際にある程度まで妥当するところもある。とくに、ゲームをすることが義務として社会的に何かしらの権力をもった相手との関係性のなかで為されるのであれば、「ゲーミフィケーション」などということはほとんど成立しない。代表的なのは、会社の営業部で壁に各社員の成績を露骨に張りだして競わせるようなやり方だ。こうした仕方で競争を仕掛けることは成績上位の社員であればまだしも、成績が下位を低迷しているような社員にとっては自分を貶めてくるようなストレスにしかならない。
こうした指摘を鑑みるのであれば、ゲーミフィケーションというのは確かに嘘っぱちである。ゲーミフィケーションは競争を作り出せるかもしれないが、楽しいゲームを作りださせることはできない、ということになる。
しかし、実際に「ゲーミフィケーション」とされるようなサービスを会社や日常生活のなかに取り入れる場合は、この指摘は常に妥当するわけではない。いくつかのケースがあるが、もっとも王道的な対応は、そこに参加する各人が自由にゲームに参加でき、やめたいと思ったときに自由にやめることができるような状態のなかでゲームに参加してもらうことである。日常の中にゲームが入り込んでいること自体が問題というよりは、日常のなかの「義務」として自由が剥奪されている状態こそが問題なのだ。そのため、会社内へのゲーミフィケーションを考える場合、絶対に成し遂げられなければならないような基幹業務に競争的な仕組みなどを導入することはあまりおすすめできないということになる。少なくとも社員の精神状態にポジティヴな効果をもたらすことはあまり期待できない【注5】。
「非日常性」という要素はこのような形で直感的にはゲームの楽しさを支える重要な要素であるように思えるところがあり、一定の説得力もある。しかしながら、ゲーミフィケーションのような概念が成立してしまうこと自体が「非日常性」という基準が厳密な基準を満たしえない曖昧性をもった概念であること示している。
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