政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ | 井上明人
今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第11回をお届けします。先日のドナルド・トランプが当選した米国大統領選挙で、ヒラリー陣営は政治的動員のための「快楽のゲーム設計」を失敗したという議論から、「どこまでをゲームと見做すか」の手掛かりとして、形式と認知による4分類を紹介します。
井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ
政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ
さて、本稿を書き進めている間にドナルド・トランプがアメリカの次期大統領として当選してしまった。トランプが当選したことについては、筆者は単純にショックを受けた。トランプがなぜ当選してしまったのかについて筆者がそれほどたいした説明をできるというつもりもないのだが、トランプの当選に関わって政治運動を「快楽」との関わりから説明できるのではないかという議論が出てきていること。国内のものでは、たとえば宮台真司によるこの論評などはかなり読まれているようだ。トランプの当選が「快楽」の問題としてどこまで説明できるのかは、心もとないが、政治と快楽をめぐる論点についてであれば、筆者がある程度コメントしておくべき点もあるだろうと思うので、本連載の流れから少しだけ脱線して、この問題に触れておきたい。
さて、宮台による論建ては「政治的な正しさ」の問題と、有権者にとっての「快楽」の問題がそれぞれ独立した問題として成立しており、退潮傾向にある左翼やリベラルの人々が、快楽によって駆動されているトランプ支持者のような人々を「正しくない」と批判したところでそれは、そもそも批判として無効であり、「正しさ」と「快楽」をどのように一致させるかを考えることこそが重要なのだということだった。両者の一致にこそ政治的な動員を考えたときの活路がある、というのが宮台の指摘である。宮台の指摘するとおり政治において重視されてきたはずの「正しさ」という点から、トランプは確かに大きくかけ離れた大統領候補だった。その意味で、この宮台の指摘は説得的なものであると言ってよいだろう。
トランプの問題に特定しなければ、このような論点自体は目新しいものではない。宮台に近い国内のジャーナリスティックな社会学の文脈に限っても、宮台の弟子である鈴木謙介による『カーニヴァル化する社会』でも類似の論点が取り扱われているし、塚越健司『ハクティビズムとは何か』でもアノニマスによる社会的活動がネットの「祭り」と近い関係にあることが述べてられている。そもそも拙著『ゲーミフィケーション』で冒頭にとりあげたオバマの2008年の選挙活動の事例は、まさにアメリカ大統領選において、いかにゲーム的な楽しさが政治的動員を駆動させる一翼を担ったかということを紹介することからはじめたものだった。
さて、では政治的動員にとって快楽が重要なキーとなってきている時代になりつつあるというのは重要なのかどうか?改めて整理すれば、快楽について考えることが重要な時代になっていることそれ自体は事実だろう。ただ、政治が快楽を用いることが、いかなる意味で望ましいことであるかについては安易なコメントは差し控えたい。そして、より踏み込んで言うのであれば「どのような快楽」を重視するかという問題に言及をすべきだろうと思う。
それは「快楽」であれば、問題が解決するわけではないからだ。
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考えるに、政治をめぐる快楽の問題にはジレンマが内包されている。そして、おそらくこのジレンマ自体はおそらく二〇世紀にもすでに存在していたものだ。これを解説するために、小熊英二『社会を変えるには』からの記述を参照してみよう。
小熊によれば、1968年ごろに起こった大学の占拠について、当時のバリバリの左翼学生(セクト)は実際のところなぜ、そんなに運動が盛り上がったのかほとんど理解できていなかったようだという。「それまで政治に無関心そうだった学生たちがいきなり集会を開いてバリケードを作り始めている。聞いてみると、授業がつまらないからとか、マルクス主義にも革命にも関係ない」[1]という状況があったそうだ。つまり、68年の全共闘運動が広がった背景には、「正しさ」によって動員された学生が大量にいたということではなく、「快楽」によって動員された学生が大量にいた、ということだ。そして、自由参加・自由脱退が基本である全共闘という枠組みでは、こういった学生を受け入れるだけの幅の広さがあった。
ただし、この68年ごろの「快楽」には大きな問題が発生する。
一時的に全共闘に加わり、別にそれほど気合の入った左翼というわけでもなかった学生たちは、お祭り気分で盛り上がっていた。しかし、このお祭り気分での盛り上がりは所詮お祭り気分での盛り上がりでしかないため、大学を占拠して泊まり込んでドキドキしている最初の一ヶ月は楽しいものの、次第に飽きて、人が去っていく。
そうなったときに残ったのは結局、68年以前からのバリバリの左翼のメンバーで、彼らは、にわかで運動に加わった学生とは違い、いざというときにはしっかりと動いてくれる[2]。バリバリの左翼たちは、活動をしっかりとやるという意味では、頼りがいのある中心的なメンバーとして機能していたが、運動の目的が「革命」というところだったゆえに、大学闘争をしても大学側との妥協が残るような交渉はせず、バリケードに立てこもって出口のない戦略をとってしまう。
こうしてお祭り的なノリでついてきたにわか左翼の学生たちも去り、バリバリの左翼の運動も結実することのないまま68年の運動は終わりを迎えてしまう。
ここまでが小熊による全共闘運動の経緯の要約である。小熊はこの後でも「運動に飽きる」という問題をどう考えるかという論点にふれているのだが、思うに、ここで発生していた「快楽」には全く種類の違う二種類のものがあるように思う。にわか左翼の学生の快楽と、バリバリの左翼の学生が保っていた快楽の中身である。この両者の快楽は連続してはいるものの、それぞれに少し質の異なるものだ。本連載ですでに触れた分類でいえば「遊び」と「ゲーム」の違いとしてしばしば整理されがちなもの[3]だが、それは「党派を超える快楽」と「党派の内側のための快楽」という形で整理しなおしてもいいかもしれない。
本連載の第一章で述べたことを雑にまとめれば、前者は単純な逸脱をともなうことの中に喜びを見出すものであり、後者は、複雑なルールを生きることのなかに喜びを見出すものだ。党派を超え「にわか」を生み出すような爆発力のある、特別なお祭り的な快楽というのは、往々にして、なにかいつもと変わったこととして見出される。それは「いつもと変わっている」ということ自体に価値がある。
一方で、党派の内側、組織の内側で機能する快楽というのは、しばしばゲーム的な快楽――まさに、いま本連載で扱っている「学習説」的な説明があてはまりやすいような快楽――とされやすいものの範疇である。そのありようというのは「いつもと変わっていること」ではなく、「繰り返していくこと」の中に見出されていく快楽である。似たようなことを繰り返し、それに上達し、戦略を洗練させ、風景が少しずつ変わって見えていくそのプロセスのなかに生まれる快楽がそれだ。遊びやゲームに関わる、快楽はしばしば「非日常」のことだとみなされがちだが、そんなことはない。
日常的に運動を「続けていく快楽」と、非日常としての運動に「にわかに参加する快楽」は、まったく別の快楽なのである。
そもそも別の快楽なのであるから、「続けていく快楽」の内側にいる人間は、「にわかに参加する快楽」を覚えている人間が何を楽しんでいるのかを理解するための想像力を失いがちだし、逆もまた然りである。
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