【劇評276】ホーヴェ演出、イザベル・ユペール主演の『ガラスの動物園』の舞台を読み解く。国境を問わず、多くの人々が圧殺されている閉塞感。六枚半。
『ガラスの動物園』の常識を打ち破る舞台だった。
コロナウィルスの脅威のために、二〇二〇年、二〇二一年と延期になってきたテネシー・ウィリアムズ作 イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の舞台を、新国立劇場の中劇場で観ることができた。
冒頭、エプロンステージにいるトム(アントワーヌ・レナール)は、最前列の観客の手を借りて、スカーフを使ったマジックを見せる。のちに重要な鍵となるマルヴォーリオの棺桶を使った魔術を先取りした演出である。
ここで私は、スカーフが私たちの思い出のように思えた。どんな衝撃的な体験も、時間とともに、古ぼけ、変形される。私たちは自分のもの、他人のものと区別のつかない記憶を鞄のなかに詰め込んで持ち歩いている。
一本の紐からすり抜けるスカーフは、とりとめのない思い出そのものに思えたのである。
舞台美術も独特である。
中西部、セント・ルイスの風俗を写すことを止めて、喜怒哀楽に憑かれた人間の顔たちが浮かび上がる褐色の壁に包まれている。舞台中央上手よりには、外部とつながる階段がある。
ヤン・ヴェーゼイヴェルトの美術・照明が圧倒的に優れている。
全体の印象は、フランツ・カフカの迷宮にある最下部の部屋のようだ。しかも、この身捨てられた空間には、近代的なオープン・キッチンと巨大な冷蔵庫がしつらえられている。トムが製靴会社の倉庫で働くわずかな給料と、アマンダ(イザベル・ユペール)の雑誌購読勧誘によって、ようやくローラ(ジュスティーヌ・バシュレ)の三人家族が貧しく暮らしている設定が、混乱に落ち入っているかに見える。
つまり、ここにあるのは、アメリカ合衆国の中西部や南部独特の空気感ではなく、国境を問わず、多くの人々が圧殺されている閉塞感である。
演出の主題は、テネシー・ウィリアムズの自伝的な要素に重きをおかない。家族を養わなければならず、どこへも脱出することができなかった人々へのレクイエムであるように思えた。
ホーヴェ演出は、なぜ、これほど観客の心を打つのか。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。