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江戸の中の異国

ご存じのように江戸時代は海外との交流が著しく制限されていました。他国との交流は長崎においてのみ制限付きで行われていました。司馬遼太郎さんの言葉を借りるなら「一個の暗箱にたとえると、鎖国時代の長崎は針で突いたような小さな孔だった。そこからかすかな外光がさしていた」ということです。

『画本柳樽(えほん やなぎたる)六篇』天保15年

 江戸時代に詠まれた川柳の中で、特に優れた句を選び編まれた『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』という本があります。この本に掲載された句と共に、新たに句意を説明する絵を配したのが『画本柳樽(えほんやなぎだる)』です。
 その中で、長崎の唐人屋敷が描かれていたものがありました。鎖国政策が行われるまで中国人は市内に自由に住んでいました。しかし密貿易とキリスト教浸透を防止するため、幕府は1689年に唐人屋敷を建設し、中国人を収容・隔離、出入りを厳しく管理するようになりました。
 当時の人がどのようにして唐人屋敷の中の様子を描いたのかはわかりません。人づてに話を聞いて空想で描いたのかもしれません。というのも長崎の商人たちが入れたのは屋敷入口の二の門までで、中に入ることを許されたのはなんと遊女だけだといいます。確かに絵を見ると中国人と日本の遊女しかいませんね。

唐人屋敷の宴は毎日開かれていたそうです


『柳多留』は川柳の本ですから当然、絵と共に川柳も記載されています。見てみますと
「丸山の客の頭は丸いなり」
「丸山の客は四角な文字を読み」
「唐人館ドラチャルメルで騒いでいる」
「唐人はコップコップと酒を飲み」

 唐人屋敷は、1859年(安政6年)の幕府が開国すると廃屋化し、1870年(明治3年)焼失してしまったそうです。現在は土神堂・天后堂・観音堂と福建会館の4堂のみが残されており、遺存していた「旧唐人屋敷門」は興福寺内に移築されているとのこと。昔、長崎には旅行というか研究所の最終試験に訪れ、少しだけブラブラしましたが雰囲気がもの凄く好みでまた行きたい街でもあります。試験終わったら気が抜けてカステラを買うことしか考えられなかったのが甚だ残念でした(私はカステラが大好き)。

〔追記〕
「丸山の客の頭は丸いなり」
「丸山の客は四角な文字を読み」
この川柳にある「丸山」はてっきり丸い頭の人かと思っていたのですが、長崎の花街だとわかりました。丸山遊女のみが唐人屋敷や出島への出入りを許されていたそうです。

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