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「真実」とは?「犬のうんちの正体」。(真実を全世界に広める際の資料。)
私は僧侶です。
そのため世のため人のために「この世の真実」をお伝えしていく。これが本来の仕事となるわけです。葬式とかやってる場合じゃないんですね。
いずれは世界に真実を伝え、世の迷える大衆を導いていく。これが使命となるわけですが、その際私は道元禅師が力を入れてお伝えになられるところ、つまり「坐禅」の存在とその「坐禅」を勧めることが、それとイコールとなると思っているんです。
今回はいずれこの教化をするにあたって、参考となる基本資料を作りたいと思い、筆を走らせることにしました。
専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。
道元禅師が記した「普勧坐禅儀」という書物の中に、このような文章が出てきます。
この話をその資料の一部として使いたいと思っています。
概念について
専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。
まず冒頭の「専一」これは「専心一意」の略語ですね。
「物事を只管に行じていく事」をこの「専一に」と言います。
つまりよそ見をせず、一生懸命行じていく事を「専一」とか「只管」と言うんですね。
続いての「功夫せば」という部分。ここが少し複雑です。
我々は普段頭の中にある「概念」によって物事を判断しております。この概念の所持は人間の特性であり、それに従い生きることが我々人間活動の特徴と言えるでしょう。
常にこのどうすることもできない「概念」が我々の生活の中には横たわっております。
直感とか、習い性、性格。さまざまな言われをするこの概念ですが、その人の育ってきた環境、あるいは現在置かれている状況によってその姿は形を変えます。
そしてその概念によって人とうまくやれたり、喧嘩したりするわけです。
人によって捉え方が違うということは、常に誰かと諍いを起こす可能性があるかもしれない。このような状況に常にいるとも言えるわけです。
それではどうしても安心できないですよね。
概念は実物ではなく、架空の存在です。存在していないため決して寄りかかることができません。私が「こうだ」と思っていることでも他人からすると「ふざけるな」、と捉えられてしまうことも往々にしてあります。
とはいえ本人からすればその概念が人生の、あるいは自分の「指針」であり、それを頼りにこれまで生きてきた。成功を収めてきた。なかなかそれを捻じ曲げることはできません。
概念というのは本当に厄介なものなんですね。
しかしこの概念に頼った世界には行き詰まりがあります。
なぜなら概念と我々が生きている世界とでは直接的な関係性がないからです。
例えば目の前に落ちている犬のうんち。そのうんちは100%真実を展開しているのに、人間はそれを「汚いもの」としか捉えることができません。
犬のうんちは真実の姿ですよね。何故なら実際にそこに存在していて、実物であるがために数秒ごとに形を変えているからです。仏教的にはこれを真実と言ったりします。
概念はそうではありません。幼い頃に抱いていた思いや習い性といったものが大人になってからも未だ姿を変えずにあり続けるのです。
すごいことですよね。何十年も前から同じものがあり続ける。
しかしそれはおかしなことなんです。世の中の全ては無常。形を変え続けております。我々の体も。犬のうんちも。
なのでこの概念とは大自然のあり方とは反したものなんですね。大自然の一員ではない。「この世に存在していない」のです。
犬のうんちといえば汚い。これが概念の正体です。真実のありように対して、ただ上から評価をしたり、名前をつけていく作業。そしてそれがあたかも正体かのように「がん」のように自分の人生にこびりついてくる。
人間がどう思おうと、犬のうんちはただそこにあって、形を変えている。それが汚かろうが、綺麗だろうが、犬のうんちだろうが、犬のうんちじゃなかろうが、それが実物であれば実際に掴むことができるのです。
概念は掴むことができない。概念は実際のやり取りには一歳介入ができないんですね。
このように人間の概念と実際の犬のうんちとは直接的に関係していないわけです。
真実とは関係ない、人間だけの取り決め。これが概念です。
それでもこの「概念」は非常に便利なんですよね。
他の人とコミュニケーションを取れるのもそう、自分の思いを伝えられ、そのおかげで、ご飯が食べられたり、気持ちの良い思いができる。全て「概念」のおかげであります。
犬のうんちは汚い。そのような共通の取り決めを持つことによって、人間生活が便利になったわけです。
しかし繰り返しになりますがそれは真実の世界とは一才関係のないことです。それは単なる人間だけに存在するルールで、真実とは全く関係がない。
概念とは人間が勝手にそれらしい「名前」をつけているに過ぎない、人間だけが話す言葉のようなものです。
それではどうしても行き詰まる。どうしても救われないということ。
真の「安心」は訪れないということです。
何故なら概念は存在せず、存在しないということは支える添木にはなってくれないからです。
そこで先ほども出た「功夫せば」という事。
これは「体を使って行じていく」という事ですね。
我々は物事を「概念化」してコミュニケーションを取ったり、自分の思いを伝えたりします。
そしてお互いの共通概念をもうけ、そこで「理解する」という手段で他人とうまくやっている訳です。
しかしこれは先ほどもいったように物事の「事実」を見ているという事では無いんですね。
物事を概念化し他人とうまくやれるようになったとしても、それは所詮「我々の頭の中の出来事」や、頭の中のやり取りでしかなく、真実ではない。
この世の事実、真実はその「頭の外」にあるものなのです。
犬のうんちも、その辺の石ころの真の姿もそう。真実は我々の頭の外にあるものなのです。
我々の命とは?
ところで今の「先進医学」では、それを学ぶために大学などで最初にやるのは「解剖学」だという風に言われております。
その際「人体」にメスを入れ、色々分析する訳ですね。
「あぁここに心臓があるなぁ」とか「ここにあるのが肝臓である」とか、「これが血管である」とか、「これが筋肉の細胞である」とか。
まぁそのような教えから行うらしいんですね。
確かにこれは人体の構造を知る上では非常に分かりやすいですよね。
実際に解剖を行いながら「人体」の構造を見ていくわけですから、医学を学ぶ上でも理解しやすいのでしょう。
しかしこれが「本当の人間の命か?」と言われるとそうではないんですね。
例えば解剖した「心臓」や「肝臓」、「血管」、そのようなものが一つ一つ組み合わさって出来たのが人間の命という訳ではないのです。
ご飯粒の中には御仏様がござる
今の話を聞いてもどういう事か、いまいち釈然としないはずです。
なのでこのような話も少し耳に入れてください。
昔、大正時代に非常に「物を大切にする」おじいさんがいたんですね。
「全ての物には御仏様がござる。」というのがそのおじいさんの口癖で、「どのようなものも決して疎かにしてはいけないぞ」という事を盛んに言っていたんです。
これはずっとそのおじいさんの家で代々伝わってきた教えなのでありましょう。
「物事には全て御仏様がござる。」と。「だから決しておろそかにしてはいかんぞ、」と。
そのような事を孫にも言っていたんです。
例えば孫がご飯粒を床に落とすと、「決まってご飯粒の中には御仏様がござる!」と言って、どんなにその孫が可愛くてもうるさく注意をしていた。
まぁこのような素晴らしいじいさんがいた訳です、昔は。
その頃はというと「大正時代」でもありまして、小学校に初めて「顕微鏡」が導入された時代でもありました。
「顕微鏡」というのはご存知の通り、物を拡大して見る道具です。
そのような訳であるので学校の先生に至っても、「この顕微鏡で覗いたならあらゆるものが見えるぞ、見たいものがあれば学校へ持ってこい」と得意げに言う。
「顕微鏡で見たらなんでも見えるぞ」と。
そのように学校の先生に言われたものですからいつもおじいさんからご飯粒の中に御仏様がござる、という風に聞かされておったその子供が、手を挙げるんですね。
そして次のように言う訳です。
「先生!おらのじいさんはご飯粒の中に御仏様がござるといつもおらに言うんだ!それって本当なの?」
そのように言われた先生はご飯粒を見るまでもなく、即座に次のように答える訳ですね。
「何を言っているんだ!ご飯粒の中に仏なんかおるものか!ご飯粒は炭水化物と水から出来ているんだぞ!帰ったらそのようにおじいちゃんにちゃんとおしえてやりなさい。」
まぁ当然の事ですね。
事実、ご飯粒というのは「炭水化物」と「水」から出来ております。
なのでこの先生は一つも間違ったことは言っておりません。
そのようなことで早速、その子が家に帰っておじいちゃんに言うんですね。
先生から言われた通りに言います。
「おじいちゃん、ご飯粒の中に仏なんかおらんぞ!!ごはん粒ってのは、炭水化物と水から出来ているんだ!」
それを聞いたおじいちゃんはですね、お仏壇の前で肩を震わせて泣いたといいます。
まぁこういうエピソードが残っているんですね。
何故このじいさんが泣いたのか、当時の男の子には分からなかったんでしょうね。
しかし、大人になって初めて気づいたんです、その男の子は。
じいさんが言った「ご飯粒の中には御仏様がござる。」というのは決して嘘じゃなったという事に。
どういうことでしょうか?
先ほどの犬のうんちの話も、人間の「命」の話もそうですが、我々は物事を概念化して分析をします。
ご飯粒は「炭水化物」と「水」で出来ていると。
これはこれで間違いない話でもありますが、それは概念です。
仮に「炭水化物」と「水」をいくらごちゃごちゃごちゃごちゃ混ぜたとしてもあの美味しいご飯は出来ないですよね?
我々人間は頭の中では概念化して説明したり分析したりは出来ますが、それを「作り出す」までは出来ない。真実に触れることができないとでも言いましょうか、概念はあくまでも後付けなんです。
物事の真実のありようとは一才関係がないんです。
評価をしたり、「名前を付けているだけ」なんですね。
言ってしまえば我々の人間生活というのは言葉遊びをしているだけなんです。概念が真実と関わり合いがあるようでないとはこのことなんですね。
まぁ概念があれば組み立てる事くらいは出来るかもしれませんね。
例えば「車」を組み立てたり、「テレビ」を組み立てるという事は出来るかもしれない。
しかしそれは大元の素材があって初めて成り立つ行為です。
我々はお蚕さんのように口から糸を出すことは出来ないわけだし、お米の苗を植え、収穫できたとしても「そもそも」を作りだすことはできない。
概念でもってして偉そうなことを大層並べ挙げたとしても、それは単に名前を付けているのに過ぎないということなのです。
「炭水化物」であろうと「仏」であろうとそれは「名前」の違いでしかありません。
物事の「命」の尊さには変わりがないのです。
どんなものでも尊い、犬のうんちでも、お米一粒でも。どんなものでも仏なのじゃ。
その事をこのじいさんは「ご飯粒の中に御仏様がござる。」という風に言われたわけなんですね。
それにも関わらず我々人間と言うのは、「な~んだただの炭水化物と水で出来ているだけじゃないか!」と分かったふうな口をきき、本来の物の尊厳や偉大さを軽視します。
この世の全ては、真実であり、仏であるわけです。
犬のうんちも真実です。仏です。そんな犬のうんちに対してもただただ汚いと。
元々は仏であったわけです。全てが。今もそうです。この世の全ては仏のみ、尊いのみなんです。
なので全ては「お陰様で」。この一言に尽きるのかなと。何故なら我々はどこにいても何をしてても常にこの「真実(仏)」のみに囲まれているから。
散らかった部屋もお陰様で。病弱のこの体もお陰様で。腹が減ったもお陰様で。犬のうんちもお陰様で。
どんなことがあっても真実のみが約束されている。
しかしそれもこれも概念化に慣れてしまったせいでしょう。評価することだけに人生を使ってしまう。人生を終えてしまう。本来仏だけなのに、その仏がどんどん軽視されていく。
危険です。この危険性は今後さらに増すかもしれません。
桜の花は何もないところから綺麗に咲きほこる
とんちで有名な一休禅師おります。
その一休禅師は綺麗なソメイヨシノの桜の花が咲いた時、何故こんなきれいな花が咲くのか?という事をいつも疑問に思っていたといいます。
そしてつぎのような詩を残します。
年ごとに咲くやよしのの山桜。木を割りて見よ花のありかを。
この詩は「桜の木を切って、あのように綺麗な花を咲かせる花のありかが一体どこにあるのか探してみよう。」という事をうたっています。
木を切って花の元はどこにあるのかを探ろうというんですね。昔の人は本気でそう思っていました。
しかし桜の木を切ったところで、花の元なんかどこにもありはしません。
どこを切ってもそんなものは出てきません。
物事を理論立てて考え、桜の木の「どこかに」桜の花の元があるのではないかと思ってしまうのが我々人間なんですね。
しかし桜の木の元から桜の花など見つかりません。
桜の花が、そのような「何もないところ」から咲き、あのように綺麗に咲き誇るのには理由などないのです。
人間の理論や概念が一切通じない「命」がそこに現に芽生えているのです。
「なにもない」というと語弊があるかもしれません。
恐らく「花」を咲かせる何かしらの養分が木々の枝枝に流れているのがきっかけなのでしょう。
しかしなぜそのような養分が「桜の木」に流れているのかわからないし、説明もつきません。
なのにあのような綺麗な花を咲かせる。
もう難しいことは抜きにして、仏の一言でいいではありませんか。我々はなぜなんでも理解したいと思うのでしょう。なんでも評価をしたがるのでしょう。
食べたあと、数時間で腹が減る。我々にはこんな身近な理由すらわからないわけですよ。我々が本当に理解していることなど何一つありません。今理解していると思っていることの全ては、名前をつけているのに過ぎないのです。概念遊びをしているのに過ぎないのです。
理解などしようと思ってもできないのです。何故なら物事というのは我々の頭の外で起こっているから。
仮にどうしても理解したいというのなら、足を組む。足が痛くなる。これを身をもって知ることです。何故ならそれが理解したいと思っているこの世の「真実」だからです。そしてその「この世の真実」を実際に体験しているからです。これ以上の理解はありません。
本当の心の使い方、概念の使い方
全てはもっとシンプルに捉えて、もっと人生をもっと謳歌すべきです。我々は。仏様のおかげ。それだけでいいではありませんか。
それにせっかく人として生まれてきて、せっかく桜を愛でる心を備えられたのですから。
よくわからないけど美味しいなーでいいんです。よくわからないけど綺麗だなーでいいんです。
「心」や「概念」の使い方は本来そのようにあるべきものなのです。
何故「お米」は「炭水化物」と「水」で出来ているのか?
何故「桜の木」に「桜の花」を咲かせる養分が含まれているのか?
そんなもの決して理解できないのです。理解できないものを理解しようとして、そしてそのためだけに人生を終えてしまう。
これが昨今の我々です。
人間はなんでも理解したがる。頭の中だけで解決したがる。しかし物事というのはその頭の外にあって、理解が決して及ばない仏の命がそこには生きているのです。
先の「お米」の話と同じですね。
今後さらに研究が進み、もしかしたらお米の成り立ちについてさらなる新発見があるかもしれません。
しかし我々が仮にいくら物事を概念化し、分析し、説明できたとしても、本来それは概念では捉えられない世界です。
本来人間の理論の通じない世界がそこには広がっています。物事のありようは人間の概念とは一才関係がないのです。
生命の真実は人間が「分析」して捉えられるものではない
道元禅師がおすすめになるこの「坐禅修行」においても同じですね。
「我々は一体何者なのか?」、「坐禅をする意味は一体何なのか?」、「こんなくだらない事に何十分も拘束され痛い思いまでして坐る坐禅の意味とは一体何なのか?」
このようなことを色々思案するわけです。
色々頭の中で考え、分析をする。
人間の頭で考えれば本当にくだらないですよね、この坐禅なんてものは。
人生においてなんの足しにもならない。
しかしそれでいいんです。
くだらないのがいいんです。
人間生活の足しにならないのがいい。
この「坐禅」は人間生活の延長ではありません。先ほどの概念の話ではなく、真実のみが広がる頭の外の話。決して説明のつかない、仏という真実の話です。
なので人間生活の足しになってしまったらそれは「坐禅」ではない。
「坐禅」をして「給料がUPした!」とかですね、「女の子にもてるようになった!」など、そんなことには絶対ならないんです。
「坐禅」はそんな「人間の損得感情」とは一切関係ありません。
繰り返しになりますが「坐禅」は人間の頭の外に飛び出した真実の行い、つまり桜のあり方や、お米のあり方、犬のうんちのあり方と同様、「大自然の在り方そのもの」なんですね。
人間の概念から離れた、「大自然」の行い、つまり仏の行いなんです。
なので坐禅は仏行だと言われ、真実の行いであると言われる理由がここにあるわけです。
一寸坐れば一寸の仏。という有名な言葉がありますが、まさにそのとおりですね。
真実の世界、つまり生命の実物の世界。それを実践している坐禅。その坐禅をすればたちまち、仏の世界に立ち返ることができるからです。
その仏の世界に共存している我々人間も本来その仏そのものなのだから、坐禅は我々人間が本来行わなければいけない義務なのです。
そんな尊い「坐禅」を今こうして行じているのに、色々思案し始める。
「坐禅とは一体何なんだ?」「何の意味があるんだ?」そんなことばかり考えてしまう。
先ほどの「お米」の話や「桜の木」の話もそうであるように、実際に目の前に広がる真実の世界、あるいは今こうして備わっている命や、坐禅における「生命の真実」の意義というのは人間が色々思案したり分析したりして捉えられるものではありませんね。
黙って坐る。それだけでいいのです。
「お米は炭水化物と水で出来ているんだ!」とそのようなことが分かったとしても、その頭で考えた答えと実際のお米とは一歳関係がないということです。
逆に我々が物事を概念化して「分析」することによって「生命の真の姿」、「我々が今ここに生きている生命の実物」というのはどんどん見えにくくなってしまうのです。
我々にわかるのはそれが仏の所業であるということだけ。物事は全て真実で、尊いしかないということだけ。
あらゆるものが真実。
今回の内容でもある、「専一に功夫せば、」において「功夫」というのは頭の中で考えて、ああだこうだと分析したり考えたりする事をやめることを言います。
そしてただひたすらに「実物(仏)を行じる事」を「専一に功夫せば」と言うのです。
本当の救いとは「大自然の在り方」を行じること
頭で考える事をやめ、生命の実物を行じていく。それを「専一に功夫せば、」といいます。
そしてその頭で考える事をやめ、生命の実物を行じていくことを「正に是れ弁道なり。」というんですね。
これが正しい道で、私が訴えたい「只管打坐」ですよ。と道元禅師が言われる訳なんです。
「専一に功夫せば正に是れ弁道なり。」
我々の行じているこの「坐禅」は生命の実物であります。
生命の実物を行じ、真実である仏をしている。
これが「只管打坐」でありますね。
道元禅師の記した名著『正法眼蔵』、『生死』の巻に次のような言葉が出てきます。
ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
「ただ我が身をも心をも放ち忘れ」とありますが、これは「全て」を放棄する事を言うんですね。
頭で「こうでもない、ああでもない」という「考え」そのものを投げ出してしまう。
「自我」を放棄するとも言えるでしょう。
「俺こそ!」とか「ワタクシガ!」といった「自我」があると、物事を二つに分けるようになってしまうんですね。
「俺が考える。」とか「ワタクシのもの」とか。
本来この世の全てが「一つ」に繋がっております。
「一つ」の仏の命です。
例えば「壁を殴ると痛い」ですね。
「椅子の角」に指をぶつけると物凄く痛いでしょう?
何を食べても際限なくこの身体が消化してくれるのもそう。
木々が作ってくれている「酸素」を吸って呼吸ができているのもそう。
カラスの声が耳に入ってくるのもそう。
自動車の排気ガスが臭いと感じるのもそう。
この世の全ては「一つ」なんですね。俺という命に際限や境界線はないのです。
これが真実です。
もしこれが「一つ」でなければ「壁」を殴ったところで痛くも痒くもないでしょうし、カボチャは消化するけどピーマンは消化しないということもあり得るのかもしれません。人とぶつかってもお互いが痛い思いをすることもないでしょう。
しかし実際はそんなことはあり得ない。何故なら全ては1つとして溶け合っているから。必ず関連しあっているから。
誰しもが壁を殴れば痛いし、誰が食べても同じようにこの体は消化をするし、呼吸もするでしょう。
そのように本来は「一つ」に繋がった世界で、「二つ」に分かれるはずがないのです。
なので「俺の考え」とか「ワタクシの物」なんて考えを起こすのは「妄想」でしかないんですね。
そのような考えは「真実」とはかけ離れているんです。
なのでそのような「心」を放棄し、本来の大自然そのものを行じるのがこの「坐禅」なんです。
全てが溶け合う仏。私もそう。今ここ、この自分の坐禅が真実である証拠。世界と私とが1つである証拠。
なのでこの「坐禅」をしたならば、
ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。
と道元禅師はおっしゃるんですね。
「本当のお救い」がそこにありますよという風に道元禅師は言われている訳です。
「本当の救い」とは「大自然の在り方」を行じることだと。
「本来の命の姿」を行じることだと。
坐禅をして、「一つに繋がった真実の仏の世界に飛び込むこと」だと。
「真実の行い」をして「真実の世界に帰っていく。」これが「本当のお救い」だと。
そうおっしゃるわけなんですね。
その時気を付けなければならないのが「それに気づくこと」ではないんですね。
「あぁ本当の救いは坐禅をして大自然の在り方を行じることなんだなぁ。」とそう気付くことではないという訳です。
気付くのではなく、実際に「行じなければ」ならないんですね。
「気付く」というのは結局は「俺が気付くという事」で、物事を二つに分けている行為ですから。
真実であり続ける、坐禅を行い続ける。それが我々の本当の信仰でありますね。
本当の「救い」であります。
吉野山ころびても亦花の中
最後に。
柳宗悦という人が残した詩につぎのようなものがあります。
吉野山 ころびても亦 花の中
「吉野山」という千本桜、三千本桜で有名なお山がありますね。
その吉野山では春になると桜の花がほころび、下一面花びらだらけになる。
そのような吉野山においてはどこで転んでも花の中だと、そういう意味ですね。
つまり全てが私の命であると、どこで転んでもわが命だと、全ては花一面であると。
これはもう全てを頂くという事ですね。
すべてが「自分の命」であると。
これこそが本当の救いですね。
我々は本来この「本当の救いの中」で生きております。