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【チェンマイ旅日記】日本人的普通感覚

タイに来て2日目の昼、相棒と一緒に美味しいランチを食べて普通にお会計を済ませたあとに、何気なく相棒が言った。

「そういえば、今まで普通に会計しちゃってたけど、タイってチップの文化あったよね?」

「あっ、忘れてました。」

そういえば、タイに来たらチップを払わなければならないと何かの記事で見たことを思い出して、相場を確認しようと私は携帯を開いた。

「なんか、相場あった気がします。今調べますね。」

開いた携帯の履歴からその記事を探す。

「そういえばさ、そうやって相場調べちゃうのってすごく日本人感覚だよねきっと。」

そんなことをボソッと相棒が口にした。

「たしかに、そもそも日本にいたらチップとか払わないですしね。」

「まぁ、それもあるね。ほら海外とかだとそのチップで従業員が生計立ててる場合あるらしいしね。日本はその分がサービス料にもともと含まれてる。」

「それならちゃんとやっぱりチップ払わなきゃですね。あー、ちゃんと書いてあります。なんか悪いことしましたね。いろいろ基準はそれぞれみたいですけど、基本飲食店とかマッサージ店などでサービスを受けた際には、一番少なくて10〜100バーツみたいなかんじで書いてありますけど、結構それぞれみたいですね。んー難しい。」

「まぁ別に気持ちでいいんだよ。いくら払った方がいいとかそういう基準で考えずにさ。けど、結局のところチップの値段にうだうだ考えちゃう日本人の私たちからしたら全て含めた値段を提示される方が楽だよね。」

「たしかに、、。楽ですね。いちいち悩んじゃいますもん。他の人はいくら払ってるんだろう、私少なかったかな、、、とかぐるぐると。別に周りがいくら払おうが、あくまで相場はただ単なる一つの判断基準にしかすぎないのにですね。」

*******

この何気ない会話。
その相棒の放った一言がその後のチェンマイ滞在中も何度も頭を駆け巡った。
チェンマイにきて約1週間が経った今、この記事を書いている最中にも鮮明に思い出される。

例えば、人が何かものを買ったり、サービスを受けたりするときには、その対価としてお金を払うことが共通ルールになった世界で私たちは今生きている。

その世界で生きる中で、たとえば、この出来事の際、私が検索したように、このものを買う、このサービスを受けることはだいたいいくらが相場なのか、ぼられていないか、適正な価格かみたいなことを調べるのは、上手に生きていくための手段だ。

ただ、私は今回そこに少し違和感を感じた。

そのだいたいの相場
言い換えれば
一般的な価格
普通の価格
適正な価格
常識的な価格

そういった類の、一般的で、普通で、適正な、常識的なものって、あくまで本来誰かの個人的な考えや価値観の単なる集合体であって、まったくもってすべての正解であるはずがないのに、あたかもそれから外れてしまう自分が犯罪者のような、間違ったことしているかのような考え方をしてしまう自分にとてつもなく違和感を抱いてしまってクサクサしてしまったのである。

今回、チップのことについて思い出すまで全くチップのことすら忘れていたし、そもそもちゃんと調べなくてわからなかった私たちだけど、このことに気づくまで、別にチップを払わなかったとしても、何ら普通にサービスを受けることができた。もしかしたら、すごく嫌な客と思われていたのかもしれないけれど、それをあからさまに注意されたり、罵倒されたり、警察に通報されたなんてこともない。

それなのに、タイのチップ文化に気づいた瞬間にものすごく罪悪感に苛まれてしまった。

あぁ、チップを払わなかったなんてめちゃくちゃ嫌な客でめちゃくちゃ非常識だと思われただろうな。もうあのカフェには行けないなとか。

あぁ、チップこれから払わなきゃだけど、みんなどうしてるんだろう。お金持ちなら気にしないかもだけど、それなりに現地滞在費用も切羽詰まってるし、お店側が不快に思わないチップの一般的な価格っていくらなんだろう。

それ以来しばらくの間、そんなことを気にしながら私はチップを支払っていた。

あぁ、これってめちゃくちゃ日本人的感覚なんだろうな。

そんなことを思う。

たしかに、一般的で、普通で、適正な、常識的に考えて生きることは大切だ。

幼い頃からそうやって教育されてきた。

周りに合わせた一般的な行動をすること
周りから逸脱しないように普通に生きること

ちょうど就職して1年が経つころまではその普通で、世間一般でいう常識的な生き方に何ら違和感なく生きていたように思う。

おそらく自分がいわゆる普通から外れてしまったとはじめて感じたのは、就職して1年が経ったころ、その新卒で入社した会社を辞めたときだ。

そのときにいかに、普通ではない生き方がしんどいかを身をもって感じた。

私の家庭でも、周りでも、普通と言われていたのは、普通に高校を卒業して、大学も卒業して、就職して社会人になって、会社に長年勤めて、仕事で成果を上げつつ結婚して、子供をもうけて、、、、。

もちろん、その普通にあてはまらない人たちにだってたくさん会って、その普通だけがすべてじゃないって、そんなこと頭ではわかっているつもりなのに、普通ではない自分がもはやトラウマになってしまいそうなくらいにつらかった。

けどそういう、普通ではない選択をしたのはこの上ない自分で、自分の責任で、だからもっと頑張って生きなきゃって、その責任の使命感と一緒に、いわゆる世の中の普通と戦いながら生きてきて、しんどいこともたくさん乗り越えてきて、それなりに普通ではない自分を受け入れて、普通に縛られない価値観にたくさん触れることを意識してきて生きてきたつもりだったのに、、、。

今回のチップの件。
大したことない。
そんなことを思う人もいるのだろうけれど、結局のところまた、周りの目を気にして、普通の空気を読もうと、読まなければならないと、そんな自分にまた嫌気が刺してしまった。

普通に縛られずに生きてみたい。

よくそんなことを思う。

普通を気にして生きてしまうと、いつのまにかその呪縛から抜け出せなくなってしまって、身動きが取れなくなり、自分の行動が制限されてしまう。

そんな生き方って
しんどいしつらい。

頭ではわかっている。

普通に縛られず
過去にも未来にも執着せずに
他人とは違う自分の普通を受け入れて、楽しく、ハッピーに生きる。

そんな人生の方が絶対に幸せだと。

頭ではわかっているこの理解を身体と心に染み込ませて生きたい。

そんなことを思って、とりあえず私はタイ語で下記の言葉をどう言えばいいのかを検索して調べた。

日本語:ありがとう
タイ語:コップンカー

日本語:気持ちいい
タイ語:サバイサバイ

日本語:おいしい
タイ語:アロイ

もしかすると払っているチップは少ないかもしれないけれど、飲食店にしろ、勉強のために言ったマッサージ店にしろ、とにかく満面の笑顔でこれらの言葉を何度も店員さんに伝えた。
やはりタイ語で言われるのは店員さんもうれしいのだろうか、満面の笑みで返してくれる。
普通にうれしいしハッピーだ。

店員さんによっては、逆に日本語ではそれをどう表現するのか尋ねてきてくれた人もいた。

また会話が広がって、そのサービスの時間がとてもよき時間になる。

たった一工夫。
ちょっと調べて伝えてみただけだけど、その言葉を使うようになって以来、あまりチップの値段とかうだうだ考えずにいられるようになった。

たぶんこうゆうことなんだと思う。

毎日生きていて
あぁつらい、苦しい。
そんなときはきっと、何かの普通に縛られていることが数多くある。

でもさ、その普通って、正解でも何でもないし、単なる誰かの基準であって、それって自分に合ってるものじゃないかもしれないじゃんって。

そうやって少し自分を客観視してみて、まずはそう考えてしまった自分を受け止める。 


あぁ、私今苦しいんだな、つらいんだなって。

そしてそのあとは、誰かの普通なんかにとらわれずに、自分なりの解を出してみる。
ネットで一つじゃないたくさんの情報に触れてみたり、誰かに相談してみたりしたっていい。

でも大切なのはその1つの情報が、必ずしも普通ではないということ、誰かの正解であって、自分にはあてはまらないかもしれないと思って距離を取ることを忘れないことだ。

そうやってたくさんの情報の中から、自分に合いそうなもの、自分が楽しめそうなものをいくつか選んでやってみる。
1回失敗して落ち込みすぎなくていい。何度かトライしてみる。

その繰り返し。

それなりに何度も繰り返してきたつもりだったのにまだ、私はときどきこうやって普通の呪縛に縛られて沼にハマる。

そのくらい時間がかかるし、けどきっとそうゆうものだ。

そんなことを考えながら毎日を生きている。

たぶん思うに、この普通への少し過剰な意識があるからこそ、どこの国に行っても揺るがないジャパニーズクオリティが存在しているのだと思う。

たとえば
めちゃくちゃ安全とか
配慮あるサービスの安心感とか
公共交通機関の時間の正確さとか


今までに何度も海外を訪れたけれど、自分が日本人だということを名乗って、嫌な顔をされたことなんて一度もないし、むしろ相手側のテンションが爆上がりすることが多い。

けれど、いささかその普通が過剰すぎて、生きることすらつらくなってしまう点って、どうにかしてうまいようにならないものだろうかとそんなことを思う。

もう少し、もちろん法律をおかさない限りで、普通といい距離を保っていけるように、私自身も生きていきたいところだ。

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