【短編小説】へんなともだち 〜社会に出たくなかった藤井さん〜
大学3年生の冬、私は例にも漏れず、周りのみんなと同じように就職活動をはじめた。
茶色だった髪の毛を真っ黒に染めて、真っ黒なリクルートスーツを着て、テンプレの同じような自己紹介を繰り返し、思ってもいないような嘘の志望動機をつらつらと並べる毎日。
すぐに嫌になった。逃げ出したくなった。社会に出たくなくなった。そして思い出した。
「まだ、僕社会に出たくないんだよね。だからできる限り遅らせてるの。2浪して、1年は休学して留年してさ、それでもまだ足りないから今度は就職浪人でもしようかなって思ってる。」
そう言って、就活中の藤さんはいつも飲んでいるハイボールのグラスを置いて、真夜中にいつものように焼きうどんを作ってくれた。
醤油、みそ、ソース、よくわからない組み合わせの調味料が絡み合って、あっという間に藤さんの小さな一人暮らしの家の中が、どっぺりとした重量感のある匂いでいっぱいになる。
家の中では、留学先で見つけたというよくわからない言語の音楽がしっとりと流れていて、深夜、絶対に太るしかない、けれどお腹が空いて眠れない時間帯に、私はその出来上がったどっぺりとした焼きうどんを食べた。その横でまた、藤さんはウイスキーの瓶を開けて、ハイボールをせっせと作り、タバコに火をつけていた。
あぁ、あの焼きうどんが食べたい。
意味わからないくらいにこげ茶色で、どうみても身体に悪い、絶対に主食としては食べれないけれど、なぜか真夜中に食べると美味しいあの焼きうどんが食べたい。
気づいたら私は藤さんに1年ぶりに連絡していた。
*******
「はるちゃん、久しぶり!元気にしてた?」
「うん、藤さんは、、、とりあえずスーツは着てるけど、、、雰囲気とか相変わらずまったく変わってないね。」
「そんな人間社会に出たからってすぐに変わるわけじゃないよ。はるちゃんは、なんだか就活生ってかんじだね。」
「そう、見ての通り、バリバリの就活生。」
関西の大学に通っている私は、夜行バスで今朝、東京の地に降り立った。朝から昼にかけて2つの面接を済ませ、夕方、藤さんの住む北千住駅へと移動して、藤さんの仕事終わりに合流した。
「今日ほんとに家泊まっていいの?」
「うん、全然。引っ越したとはいえ、相変わらずせまいけど。自由に使って。」
「ありがとう。明日も面接だったからほんと助かった。満喫にいるのも最近しんどくなってきてたから、、。」
「真面目だねぇ、はるちゃんは相変わらず。僕なんてほとんど就活してなかったからなぁ。」
「私藤さんじゃないもん。結局さ、4年生になってギリギリまでなんも決まってなかったよね。」
「そうそう、そうだった。懐かしいなぁ。今働いてるところ受かってなかったら、絶対就職浪人してたなあれは。」
「全然面接通らなくてさ、最後らへんお酒飲んでから面接行ってたよね。」
「そうそう、酒飲んだ方が面接うまくいったんだよな。緊張が和らぐというか、潤滑油だったわ。」
そうやって、懐かしさに浸りながら、藤さんは下町情緒溢れる商店街の一角にある、いかにもサラリーマンが行きそうな大衆居酒屋に連れて行ってくれた。
「うわぁ、いかにも下町ってかんじの居酒屋だね。赤提灯だし。」
「ごめんよ。オシャレなとことか僕知らないからさ。」
「ううん、全然。こうゆうとこの方が私も落ち着く。」
「かなぁと思ってさ、ここにした。僕もよく来るんだよね。1人でも入りやすいしさ。それに、疲れたサラリーマン見てると元気出ない?」
「何それ悪趣味。まぁでも、わからんでもないかも。」
藤さんは席につくなり、タバコに火をつけている。店員さんが来て、飲みものを注文する。
「僕は生で。はるちゃんは何飲む?」
「私も生で。」
「おー、はるちゃんも生ビール飲めるようになったか。」
「まぁ、もうすぐ社会人だしね。なれるかわからないけど。」
私たちがはじめて会ったのは、私が大学1年生、藤さんが3年生の頃だった。年次は2つしか違わないのに、社会に出たくなかった藤さんとの年齢差は5歳くらい違う。サークル活動で一緒になり、それ以来、藤さんの在学中はまるで兄と妹みたいな関係が続いていた。
「はい、久しぶりの再会に。かんぱーい。」
生ビールが届いて2人で乾杯する。面接疲れの喉に染みた。
「最後会ったのいつだっけ?」
「うーん、正確には覚えてないけど、藤さんが卒業する前くらいじゃない?一人暮らしのあの家引き払う前に最後行った気がする。」
「あー、じゃあほんと1年ぶりくらいかぁ。」
「久しぶりだよね。連絡したときさ、もうすでに会社辞めてるんじゃないかと思ってたよ。」
「いやぁ、明日にでも辞めたいくらいだけどね。ほんと、僕社会人向いてないんだよね。」
「そうなの?意外と続いてるじゃんって思ってたけど。」
「いやいや、ほんとしんどいのよ、普通に。ほらさ、はるちゃんよく家に深夜にきてたじゃない?僕そもそも夜型だったからさ、普通に朝9時に出社するっていうだけで最初は苦痛だったし、今もしんどいのよ。何回か遅刻したし。」
「それは相変わらずというか、ほんと致命傷だね。」
「それにさ、就活全然進まなくてさ、ほらサークルの僕より1個上の山田さんに手伝ってもらってたじゃない?彼ゴリゴリだったからさ、なんか手伝ってもらってるのに干渉されすぎて途中からしんどくなってきてさ、早く就活終わらせようとか思って、山田さんの素晴らしすぎるガクチカとか自己紹介をさ、同じサークルに所属してたことは事実だし、まいっかって思って、そのまましゃべって面接受けてたのよ。自分で考えるのもめんどくさくなってさ。面接前に酒飲んでるから嘘も平気でつけたし、饒舌になっちゃって、、。」
「それさ、結構やばいんじゃない?だって山田さんなんてさ、ザ体育会系というか、なんでもやります!気合いでやります!みたいなゴリゴリの人だったじゃない。そんな人の自己PRとかで今の会社入社したってこと?」
「そうそう、僕の対極にいる人だからね、山田さんは。社会にとにかく早く出て結果出します!みたいなさ。受かったのはよかったんだけどさ、そりゃあ入る前の期待値はデカイわけよ。しかもゴリゴリの営業とかしたくなかったからさ、今の会社は半分行政みたいなゆるやかなとこだから、そんな中に、ほんとすごい奴がくる!期待の星!みたいな噂が囁かれてたわけ。」
「うわぁそれ超やばいじゃん。」
「そう、超やばかった。入社したらさ、全然面接のときとは違う、だらしなーい、なんだかやる気なーい社会不適合者みたいな奴がくるわけだから、そりゃあ、みんな驚くわな。はは。」
「はは、じゃないよ。それ大丈夫なの?」
「大丈夫ではないんだと思う。入りたての頃は毎日怒られてたし。でもさ、たぶん途中から会社の人も気づいたんだろうね。あーコイツ何言っても駄目なんだって。そうやって会社の人が諦めてくれてからは楽になったな〜。そんなにバンバン仕事回ってこないしさ、適度にサボりながらゆるりとやってるわ。」
「ほんと、相変わらずだね、藤さん。」
「言ったでしょ。社会に出たからって人間そんなに簡単に変わるもんじゃないって。そんな僕のだらしない話ばっかりじゃなくってさぁ、はるちゃんはどうなのよ?」
「私?私はね、ちゃんと前に進んでるよ。明日はね、最終面接が1個あるんだ。スタートもみんなより早かったし、まぁ順調なのかな。」
私は嘘をついた。本当は全然順調なんかじゃなかった。エントリーシートの段階で落ちることも多かったし、面接だって、行けると思ってもびっくりするほどいくつも落ちるし、明日の最終だという面接もただの一次面接で、真っ赤な嘘だ。なんだか自分が恥ずかしくて本当のことを口にできなかった。
「はるちゃんはさすがだねぇ。学生のときからさ、ちゃっかりしてたもんねぇ。バイトにサークルにさ、単位だっていつもしっかり取ってたし。」
「藤さんがだらしなさすぎるんだよ。いつも酒とタバコばっかりに走ってさぁ。あ、思い出した。そういえばさ、ちょうど就活してたとき、やっと最終まで行けた唯一の面接落ちてとんでもなく荒れてたよね。」
「あったっけ?そんなこと。」
「あったあった。たぶん相当飲んでたから記憶ないかもだけど。カラオケでさ、飲みまくって、お金もなかったから、吸い尽くしたタバコの吸い殻にまた手をつけて吸い始めてさ、僕はクズだ。クズは骨の髄まで親の脛をかじりきる。とか訳わからないこと言って、ブルーハーツの終わらない歌熱唱してた。」
「それほんとに僕?だとしたら終わってるね。はは。」
「似合ってたよ。くそったれの世界のため。すべてのクズどものために。」
「似合ってるとか言われても、その有様じゃうれしくないな。」
そう言って私たちは笑い合って注文していた焼き鳥たちを食べた。とてもおいしくてあっという間になくなって、途中から瓶の方が合うねって瓶ビールと2つのグラスを頼んで懐かしい想い出たちに浸った。
「ごちそうさま〜。あー、おいしかった!」
会計の紙を取って入り口に向かおうとすると藤さんがその紙を取り上げた。
「いいよいいよ。就活生なんだから、たまには奢らせてよ。」
「え、いいの?珍しい。じゃあお言葉に甘えて、ごちそうさまです。」
藤さんが会計をしてくれて、私たちは外に出た。
「もう1軒いく?全然僕は大丈夫だけど。」
「え、だって藤さん明日仕事でしょ?もう9時すぎてるし、悪いよ。」
「大丈夫だよ。多少遅刻したって、ほら、もう諦められてるし。」
「いやいや、よくないよくない。ちゃんとしなさい社会人。」
「はいはい。じゃあコンビニでつまみとかデザートでも買うか!」
「うん、そうしたい。」
私たちは藤さんの家の近くにあるコンビニに寄った。中に入るなり藤さんがカゴを取って私に渡してきた。
「家にウイスキーと炭酸はあるから、それ以外欲しいものなんでも入れなよ。今日は僕のおごり!」
「太っ腹だねぇ。ほんと学生の頃からしたら考えられないわ。だって5歳も年下の私に奢ってもらってたもんね。」
「うわ、痛いとこ突かれた。ほんとだよね。あの頃お金なかったもんな。バイトもしょっちゅう休んでたし。」
「そうそう。みんなで深夜に酒飲んでる中さ、急に声色変えて咳き込みながら、体調悪くて休みますとか電話で言ってて、ほんとクズの極みだったね。」
「懐かしいね。あのときは散々お世話になりました。だから今日はお礼させて。」
「はい、たっぷりと、甘えさせてもらいます。」
お酒のコーナーに移動して、レモンサワーの缶と、その隣からジャスミン茶をカゴに入れる。
そしてスイーツのコーナーへ行き、どれにしようかと悩んでいると、その隣にある惣菜コーナーにおいてあるうどんの袋に目が止まった。
「ねぇねぇ、藤さん、あの焼きうどんて作れる?」
「焼きうどん、あーあれね。全然作れるよ。家に調味料あるし、そのうどん玉買っていけば!」
「ねぇ、久しぶりに作ってくれない?」
「全然いいけど、あれ食べたら太るとか愚痴愚痴言ってなかった?」
「やったぁ。いいの。今日はこれが食べたい。」
「こっちのプレミアムスイーツとかじゃなくていいの?今日は僕の奢りだよ?」
「うん、あの焼きうどんが食べたいの!」
私はうどん玉を手に取ってカゴに入れた。そして藤さんが、ナッツとするめを追加して、会計を済ませ、藤さんの家へと向かった。
「お邪魔しまーす。あれ、なんか綺麗?」
「綺麗かな?あんま学生のときと変わらない気がするけど。」
「綺麗だよ。学生の頃より断然。狭さは変わらないけど。」
「一言余計な。」
「ごめんごめん。」
「はい、これタオルね。先お風呂入りな。シャンプーとか一色彼女のやつ置いてあるから、よかったら使って。」
「ありがとう。」
なるほど、部屋が片付いているのは彼女さんのおかげか。妙に納得する。そういえば、いつも臭い置きっぱなしの食器洗わされてたっけ。そんなことを思い出しながら着替えを準備して、先にお風呂に入った。疲れを洗い流してから部屋に戻ると、何やら素敵なピアノの音色が流れていた。
「お先にお風呂いただきました。あれ、音楽の趣味変わった?前なんか変な民謡みたいなの流してなかったっけ?」
「変な民謡っていうなよ。あれもしっかりとした芸術だよ。これはね、彼女がさ、ピアニストでさ、紹介してくれたの。フジコ・ヘミング。はるちゃん知ってる?」
「あー、母親がよく聞いてたわ。」
「え、そうなの?お母さんさすが!わかってるねぇ。いいでしょ?」
「うん、いい。落ち着く。」
「さっ、再度乾杯だな。」
あっという間に作られた藤さん用のハイボールのグラスと、さっき買ったレモンサワーの缶が机に置かれた。
「お風呂いいの?」
「うん、僕寝る前に入るから。乾杯。」
藤さんはまた、タバコに火をつけた。そうだ、このタバコの匂いと、いつのまにか炊かれているどこの国のものかはわからないけれどツンとくる異国の香ばしいお香の匂い。藤さんの家の匂いだ。どうしてこんなに落ち着くのだろう。
そんな久しぶりの匂いを懐かしみながら、2人でしばらくの間、ピアノの音色に耳を澄ませた。
「いいね、ピアノ。」
「いいでしょ。」
そう言ってまた、ピアノの音色に聞き入る。ショパンの曲が流れていた。
目の前で、藤さんはナッツを食べながら相変わらずタバコを吸っている。
あぁ、そうだった。何も話さなくてよかったんだ。藤さんの前ではいつもみたいに変に気を回して会話をつくる必要がない。会話をしなくても、そこにいていいよって言われてるような安心感がある。気づけば時計の針が23時を回っていた。
「さっ、そろそろ焼きうどんでも作ろうかな。」
藤さんが灰皿を持って立ち上がり、小さなキッチンに移動した。
「お、待ってました。ちょうどお腹空いてきた。」
「若いっていいねぇ。おじさんはもう胃もたれだよ。」
笑いながら慣れた手つきで藤さんが焼きうどんを作りはじめた。私はレモンサワーの残りを飲みながら待つことにした。
「ねぇ、はるちゃん。」
左手で焼きうどんを作りながら、右手でタバコを吸いながら、藤さんが私に話しかけてくる。
「なに?」
「就活さ、ちょっと休んでもいんじゃない?」
「何急に。」
「ちょっとしんどいって思ってるでしょ?」
「なんで?」
痛いところを突かれて、私はうろたえた。
「いやさ、はるちゃんがいつも僕の家に来るときってそうゆうときだから。疲れてるんじゃないかなって思って。」
「そうゆうとき?」
「なんていうか、、言葉にすると難しいんだけど、一生懸命になりすぎてるというか、生き急いでる?みたいなとき。」
「生き急いでる?」
「そう、はるちゃんは僕と違ってさ、真面目だし、行動力もあるし、人と接するときもさ、相手がどんな変な人であれちゃんと向き合おうとする。サークルで一緒だったとき、いつも何事にも一生懸命で、僕からしたらありえないというか、疲れちゃわないのかなってずっと思ってたのよ。」
「うん、、」
「けどさ、それでも疲れを感じさせないというか、バイトにサークルに授業に、忙しい毎日をすごく楽しんでるはるちゃん見てさ、すごいなぁって。でもね、、」
「でも?」
「家にはじめてはるちゃん1人で来たときかな、そのとき見たことないくらいすっごい疲れた顔しててさ、いつもだったら、この音楽嫌い、知ってるの流してって怒る癖に、ずっと黙って僕の好きな音楽聴いてたんだよ。あー、はるちゃんも人間なんだなって安心したなあのときは。」
「何それ。そんなことあったっけ?」
「あったよ。それ以来、はるちゃん1人でよく家にくるようになった。1人で来るときはいつだって疲れた顔して、みんなでいるときはいつもあんなに気を遣ってベラベラしゃべるのに、全くしゃべらないで音楽聴きながら座って焼きうどん出来上がるの待ってた。」
「そうだったんだ。」
「気がつかなかった?生き急いでるって。」
「うん、でも言われてみたらいつも疲れたときに藤さん家行ってた気がする。」
「うん、だから今回もそうなのかなって。さぁできたできた。ほら、エネルギーチャージ!」
出来立ての焼きうどんが乗ったお皿を藤さんが目の前に出してくれた。なぜだろう。目から涙がこぼれ落ちてきた。目の前の焼きうどんが霞む。それに気がついたのか、藤さんはお皿を置いた後、キッチンにある灰皿のもとへとそっと戻ってくれた。新しいタバコに火をつける音が聞こえる。
「僕さぁ、最近翻訳の勉強はじめたんだよね。」
「翻訳?」
涙を拭きながらなんとか返す。
「そう、翻訳。僕さぁ、人よりも3年くらい社会に出るの遅かったんだけど、その分ありあまるくらいに時間があったわけよ。浪人時代も結局勉強はかどらなくて、成績足りなくて志望校には行けなかったし、とりあえず入った法学部の授業もさ、全然つまんなくて行かなくなったし、バイトだってだるいからすぐサボってさ、けど、その間にさ、英語を勉強したり、洋書読んだりするのは欠かさなかったわけなぜかね。」
「うん。」
「社会に出てさ、もちろん嫌なこともたくさんあるけど、今の会社でね、英語使って仕事したりすることが唯一楽しいことなのよ。唯一ね。
あー、自分が好きだと思ってたことが仕事になるっていいなぁって。」
「それは素敵なことだね。」
「まぁ、たいしたことじゃないんだけど、今はちょっとだけど、いつか好きなことしっかり仕事にしてみたいなって思って、ほんとたまにだけど勉強してるんだ。」
「藤さん、すごいね。私全然わかんないの。自分が、何したいかも、何が好きなのかも。」
「そんな簡単にわかったら苦労しないよ。けどさ、まぁ僕のケースだけど、十分過ぎるぐらいに余裕を持って、ちゃんと休んで、じっくり自分に向き合って、遠回りもしてさ、そんな時間から生まれるものもあるんじゃないかなって思うよ。急いでるとどうしても自分自身をどこかに置いてけぼりにしちゃうからね。」
「そうなのかもね、、。」
焼きうどんを一口、口に入れた。どっぺりとした香りが口いっぱいに広がる。懐かしい味だった。
「まっ、大丈夫。こんな僕が社会でなんとかやってるんだからさ、はるちゃんは絶対大丈夫なのよ。だからさ、そんな焦んないでたまにはダラーっと、ゆるーっとしなよ。」
「うん。」
涙も止まらなかったし、久しぶりに食べる藤さんの焼きうどんがおいしくて、箸もとまらなくて、とにかく私は勢いよく、焼きうどんをかきこんだ。
藤さんのだらしなさ、家の匂い、落ち着く音楽、焼きうどん、全部欲してたものだった。最近生き急いでたからなおさら、心と身体に染み渡った。
「ごちそうさまでした。ありがとう。」
「どういたしまして。」
いつの間にか、流れていたショパンのピアノが
あのよくわからない言語の音楽に切り替わっていた。
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それから数年後、藤さんから、翻訳に関わる出版社とやらに転職したと連絡があった。そして何やらはじめて自分が翻訳に携わった本が出版されたらしい。タイトルだけ聞いて、私はその本をすぐにネットで購入した。
届いて早速読んでみたけれど、全然理解できなくて3ページで挫折した。読めなかったのでとりあえず、本棚の一番見えるところに飾って、写真だけ藤さんに送った。読んだら感想を聞きたいと言われたけれど、たぶん一生読めないので、返信していない。
久しぶりの連絡がきて、懐かしくてまた、焼きうどんを食べたくなった。けれど、あのとき、レシピを聞き忘れてしまっていたことを思い出した。仕方がない。焼きうどんはあきらめることにしよう。
その代わり、あのよくわからない言語の音楽を聴くことにした。たぶん藤さんが聴いていたものとは違うけれど、歌詞の意味がわからない音楽というのは、何も考えなくていいので心地よい。ソファに座って、しばらく耳を傾ける。
あぁ、なんだか音楽が沁みている。きっと、最近忙しかったから、生き急いでいたのかもしれない。
そんなときにはダラーっと、ゆるーっと。
いつの間にかソファの上で、私は眠りについていた。
そして、私は藤さんの家で、焼きうどんを食べている夢を見た。