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【29歳無職日記】非ミニマリスト

2024年7月29日


非ミニマリスト

祖母の家で生活してみて、気づいたことがある。
祖母は「非ミニマリスト」であるということだ。
ミニマリストが、必要最低限のもので暮らす生活スタイルに対して、この「非ミニマリスト」である祖母は、十分最大限のもので暮らす生活スタイルをとっている。つまり、ものが驚くほどに多いのだ。多趣味な祖母。読書、手芸、園芸、茶道、、etc。本、雑誌、本、毛糸、布地、洋服、観葉植物、花、木、陶器、抹茶、お菓子、、etc。もう十分すぎるほどに、自分の好きなものをかき集めて、2階建ての広い一軒家のスペースを最大限に使って暮らしている。一応整理はされているのだろうけれど、正直なところ足の踏み場は少ない。
祖母に「ものを減らす」という概念はあまりないらしい。数日間一緒に過ごしただけなのに、その家の中にまた、新しい仲間が加わる瞬間を何度か目にした。
もはや「非ミニマリスト」どころではない、あえてものを増やしている「アンチミニマリスト」の提唱者なのではないのかと思ってしまうほどだった。
この祖母の家を見て、なぜかはわからないが、モワッとした何とも言えない複雑な気持ちになったので、今日はその気持ちを置き去りにしないように綴っておこうと思う。

ミニマリストという生き方が推奨される世の中で

祖母のこの状況を見て、私がまず思ったことは
「ものが多すぎる、ちょっとほこりとか汚いかも、整理整頓しないと。」
という感情だった。とにかくほこりがすごかった。いたるところに積み上げられたものたちに、勢いよく降り積もる雪のようなほこりたち。
「掃除、掃除。」
とおもむろに、雑巾を取り出して、ほこりを取っていこうと試みるものの、ものが多すぎて、それを避けるのに何倍もの時間がかかった。すぐにでも、足元にある、きっと何年も使われていないようなものたちを捨てたくなった。捨てて、すっきりさせた状態で、掃除して、きれいな家にしたくなった。

あぁ、父みたいだ。

そんなことを思う。父はきれい好きで、捨てる人だ。そして、あまりものを持たない、どちらかというと俗に言うミニマリスト気質なのだと思う。
父は言う。
「新しいものを買うなら、引き換えに今いらないものを捨ててから。」
「ものが多すぎると掃除が大変だから、きれいに保つためには捨てることから。」
そんな鉄則を唱えて、週末、まるで、ごみ収集業者になったかのように、捨てまくる。捨てて、捨てて、きれいに掃除する。ときに、必要なものまで捨てる。

そして、この祖母の血を受け継ぐ母の逆鱗に触れている。
何度も何度も、ときには母に吠えるように怒られている。
祖母に似て、母も「非ミニマリスト」である。母もものが多い。それが父にとってはストレスらしい。逆に母にとっては、大切なものを捨てられることが許せないらしい。
よくもまぁ、長年一緒に生活が続けられるものだといつも感心してしまう。

そんな両極端の両親の間で生まれて育ってきて、大人になって、結局、私は父のミニマリスト的考え方を採用した。
できるだけものを持ちすぎない、不要なものは捨てる、身軽に、きれいに、さっぱり、そうやって生きる。
そっちの方が良いみたいな世の中の風潮もあったと思う。昨今このミニマリスト的生き方は、「良い」生き方みたいな形で捉えられ、美化されていて、逆にものを持ちすぎていることは「良くない」みたいな、お金も貯まらないし、掃除も大変だしみたいな、優劣がはっきりとあるように私は感じていた。

だから、嫌だった。遺伝子が、完全に祖母、母、そして私へと受け継がれていることをなんとなく自覚していたから。
気づいたら、ものが増えている自分が嫌だった。いろんなものを買って並べてしまう自分が嫌で嫌で仕方なかった。そうやってまた、部屋が汚くなっていく気配がすると、無理になってきて、捨てて、捨てて、けどまた増えて、それが嫌になって、、、。ものが増えるたびに自分が劣等生みたいな感覚に陥って、沈むことも多かった。

ただ、ミニマリスト的な生き方が推奨されている世の中で生きているだけなのに、その生き方も1つの価値観でしかないはずなのに、いつのまにか私はそう生きることが正義だと信じて、好きなものを買ったり、並べたり、それをずっと我慢して生きていた。

そういえば、愛でてない

「あ、このワンちゃんの置物、こないだ会ったときに買ってたやつじゃない?」
「そうそう、前に人にもらった竹細工の上に載せたらちょうどピッタリやったんよ。かわええやろ。」
「うん、かわいい。その横の小鳥ちゃんも。」
「そう、つがいになっとるところがかわええんよね。寄り添っているかんじで。」

そうやって、朝食後のコーヒーを飲みながら、祖母は、テーブルに置いてある置物の動物たちの頭を撫でた。その置物より、本当は、本来4人掛けのテーブルが、2人掛けのテーブルなのではないかと錯覚するくらいに半分以上、もので敷き詰められていることが気になっていたのだけれど、あきらかにその置物たちだけ、住所があるように感じたので、問いかけてみたら、本当にちゃんと、そのワンちゃんと小鳥ちゃんたちの居場所で、愛おしそうに祖母はコーヒーを飲みながら愛でていた。

「あの棚の上に観葉植物並んどるやろ。端っこにあるやつ、名前は忘れたんやけど、なかなか育てるん難しいらしいねん。ほんで、いつのまにか葉っぱがなくなっとったんやけど、最近また、新芽が生えだしたんよ。かわええやろ。」

祖母の言う通り、リビングの中央に置かれた青々と茂る他の観葉植物の中で、1つだけ、しっかりとした枝にちらちらと不格好な小さな葉が5枚ついている植物があった。

「かわいいね。横のパキラみたいにしっかり茂ってくれるといいね。」
「そうなんよ。パキラは丈夫やね。けど丈夫すぎて、こないだこのテーブルからテレビが見えんくなったんよ。やから端っこに移動してん。ほんなら真ん中にスペースができたもんで、そこに新しいの買おう思うてるねん。」
「そうなんだ。」
「ほんまは、最近はまってるサボテン置こう思うてんけど、サボテンはちょっとな、光があった方がええ思うて、そこの陽のあたる床に置いてるねん。」

昨日、気づかなくて蹴ったくってしまったサボテンたちが心地よさそうに、窓から入ってくる陽の光を浴びている。祖母は、思い出したように、植物たちに水をあげはじめた。そして、愛おしそうに植物たちを愛でた。

愛でる

そんな行為を、感情を、最後に抱いたのはいつだろう。そういえば、愛でてない。何か自分が持っているものに対して、大切に愛情を注いだことなんて、その時間に浸ったことなんて、そんな想い出、ない。
気がつけば捨ててた。異国の地で買ったアジアンテイストの大好きな置物たちも、洋服も、失敗した観葉植物も、退職祝いとかでもらった色紙も、プレゼントも。使えるものだけ使って、写真を撮って、捨てた。その写真だって機種変更でいつのまにか消えている。

そういえば、愛でてない

祖母を見ていて、なんだか悲しくなった。何も持っていない、いろんなものを余計だと切り捨ててきた自分の人生に。自分では、過去を振り返らずに、前を向いていきていこうと奮闘していたつもりだったのに。

マキシマリストという生き方

この記事を書こうと思ったときに、ミニマリストについて調べていたら、対義語として、マキシマリストという生き方があることを知った。いわゆる祖母のような「非ミニマリスト」の生き方だ。マキシマリストとは、どうやら、自分の好きなものに囲まれて生活することで幸せを感じる人たちのことを指すらしい。まさに祖母だった。

私が生きてきた世間では、ただ、ミニマリストという生き方が誇張されていただけで、ミニマリストとマキシマリストに優劣なんてなかった。知らなかっただけで、マキシマリストとしての生き方を確立して、人生を豊かに生きている人たちがいたということに気づかされる。
どっちがいいとかじゃない、どっちが好きで、どっちが自分に合っているかみたいなことなんだと思う。別にどっちでもない自分なりのバランスを作ってもいいのだとも思った。
あたりまえのようで、自分が錯覚してしまっていた大切なことに気づけた気がした。

私が捨てられなかったもの

私は、生き方としては長年、ミニマリスト的な価値観を採用していたものの結局、血筋にはかなわないのかもしれない。祖母を見て、そんなことを思った。
そう、結構シンプルにものを持たずに生きてきたつもりだったけれど、絶対に1つだけ、捨てられないものがどうしてもあったから。それが、大量の書籍たちだ。古いものは、高校生のときに使っていた、世界史、日本史の資料集、地図帳にまでさかのぼる。社会人になってから住居を転々としてきているのだけれど、いつだって、引っ越しの荷物で一番面積を占めているのが、書籍だった。本は重くて、移動するときは大変だ。売った方がいいのはわかっているし、電子書籍化だって進んでいるし、図書館に行った方が書籍代もかからない。けど、買ってしまうし、捨てられない。

余計だと思って、けど、どうしようもなくて、押し入れの中にしまっていた本たちを取り出して、家に帰ったら愛でよう。祖母を見て、そう思った。
モワっとした何とも言えない違和感がスぅっと消えていった気がした。

祖母は私が帰る日、駅まで送った後に、本屋に寄ってまた1冊新しい本を買うのだと言った。それと一緒に、塗り絵本も買おうと思っているらしい。

「塗り絵ってええなぁ思うて、色鉛筆も一緒に買おうと思いよんやけど、どんなんがええと思う?」
「あーそれなら、友だちがさ、曼荼羅の塗り絵やってて、いいって言ってたよ。」

即座に携帯で検索して、祖母に出てきた検索結果を見せる。

「それええねぇ。花とかキャラクターとかの塗り絵と違って、正解がないから自由にできそうで。ほらそれにしよ。探してみるわ。」

そう言って、私を駅に送ったあと、本当に新しい本1冊と、曼荼羅の塗り絵本と、色鉛筆のセットを購入していた。
またあの4人掛けのテーブルのスペースがさらに狭くなった情景がありありと浮かぶ。けど、そこで塗り絵をしている祖母は、楽しそうに笑っていた。

ある角度から見ると余分なもの、余計なものが増えただけだと思うのかもしれない。けど、その余分で、余計なもので、捨てられなかったものの中に、自分の人生を豊かにしてくれる何かがじっと、待ってくれているような気がした。

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