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【読書】はじめての向田邦子『夜中の薔薇/向田邦子著』

無職になってからというもの、毎日のように読書をするようになって、読書を楽しむ中で、別にその作者の本を読んだわけでもないのに、いたるところで「三島由紀夫」「向田邦子」という2名に出会ってしまうのは私だけだろうか。

そんなわけで、今日は「向田邦子」のエッセイ本をはじめて手にとってみた。

1981年8月に飛行機事故で著者が亡くなったのちの10月に出版されているエッセイ集の新装版を読んだ。なので、著者の最後のエッセイ集とも呼ばれているらしい。

もう「うらやましい」という言葉で言い表せないくらいのエッセイの読みやすさに惚れ惚れしてしまった。

誰かが書いた文章というものを読んでいると、それぞれに、個々人の文章のテンポなるものが存在すると思っているのだけれど、著者の文章のテンポはとにかく心地よくて、なんだか文章を読んでいるというより、散歩しながら音楽を聴いている感覚で、すらすらと半ば無意識のうちに言葉が自分の中に入ってくるのが分かった。

「のびしろがある」と言わずに「だが、通帳が白い分だけ、未来がある。」と表現し、アマゾン川の壮大さを「これはもう河ではない。海だ。」と表現する。その独特の言葉のセンスにもまた、惚れ惚れしてしまった。

一番印象に残ったエッセイは3つ。
「ことばのお洒落」「手袋をさがす」「時計なんか恐くない」

刺さった言葉をそれぞれ忘れないようにここに綴っておこうと思う。

ことばのお洒落は、ファッションのように遠目で人を引きつけたりはしない。無料で手に入る最高のアクセサリーである。流行もなく、一生使えるお得な「品」である。ただし、どこのブティックをのぞいても売ってはいないから、身につけるには努力がいる。本を読む。流行語は使わない。人真似をしないー何でもいいから手近なところから始めたらどうだろうか。長い人生でここ一番というときにモノを言うのは、ファッションではなくて、ことばではないのかな。

「ことばのお洒落」より引用

でも、たったひとつ私の財産といえるのは、いまだに「手袋をさがしている」ということなのです。どんな手袋がほしいのか。それは私にも判りません。なにしろ、私ときたら、いまだに、これ一冊さえあれば無人島にいってもあきない、といえる本にもめぐりあわず、これさえあればほかのレコードはいらないという音も知らずーそれは生涯の伴侶たる男性にもあてはまるのです。多分私は、ないものねだりをしているのでしょう。一生足を棒にしても手に入らない、これは、ドン・キホーテの風車のようなものでしょう。でも、この頃、私は、この年で、まだ、合う手袋がなく、キョロキョロして、上を見たりまわりを見たりしながら、運命の神さまになるべくゴマをすらず、少しばかりけんか腰で、もう少し、欲しいものをさがして歩く、人生のバタ屋のような生き方を、少し誇りにも思っているのです。

「手袋をさがす」より引用

私は、どちらかといえば負け犬が好きです。
人も犬も、一度ぐらい相手に食いつかれ、負けたことのある方が、思いやりがあって好きです。時にしても同じです。一時間単位、二時間単位で時間を使ったからといっても、それはせいぜい、時計を有効に使ったということにすぎません。人間は、時計を発明した瞬間から、能率的にはなりましたが、同時に「時計の奴隷」になり下がったようにも思います。時計は、絶対ではありません。人間のつくったかりそめの約束です。もっと大きな、「人生」「一生」という目に見えない大時計で、自分だけの時を計ってもいいのではないでしょうか。若い時に、「ああ、今日一日、無駄にしてしまった」という絶望は、人生の大時計で計れば、ほんの一秒ほどの、素敵な時間です。

「時計なんかこわくない」より引用

「合う手袋を探していて見つかった」ではなくて、「手袋を探し続けていること」そのものに人生の価値を置き、その価値を時間に縛られないよう大切に自分の時間軸で生きること。そんなメッセージに強く背中を押されてハッとさせられた。

巻末の解説で、爆笑問題の太田さんが、あのとき、もし事故に遭わずに今も著者が生きていたとするなら、今の世の中を、向田さんはどう綴るのだろう。と書いていたけれど、たしかに、同じようなことを思ってしまうくらい著者独特の視点や感性に心動かされた一冊だった。

もちろん、著者の死は残念なことだけれど、うれしいことに、私の場合は、まだ、はじめて著者の本を手に取ったばかり。これからたくさん向田邦子ワールドに浸っていこうと思った。

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