ロバート秋山的"性"の世界観についての考察
はじめに
幼いころからロバート秋山さんのことが好きだ。
芸人でありながら、アーティスト、役者、芸術家の一面も持ち合わせている多彩さを影ながらずっとリスペクトしていた。
もちろん、メモ少年さんほどではないけれど、私もずっと一ファンで、今日は秋山さんを推しているとある一面について綴るのだけれど
愛が強すぎて、いささか長すぎる文章になってしまった(約7000字)。
そして、いささか愛が偏り過ぎて、ここに書いているのはあくまで私の見解であるにすぎないのに、溢れすぎる愛が原因で、見解を通り越して一部、個人的な妄想の観点が大いに含まれてしまったことをご了承いただいた上で、あたたかく読んでもらえるとうれしい。
”性”についての違和感
秋山さんへの愛を語る前に、事前に書いておきたいことがある。
日本で生まれ育った私は、物心ついたころから、日本の「性」についてずっと違和感を持って生きている。日本という社会では「性」の話を公に、オープンにしたがらない。それがもはや美学なのだという今なお根強い通念がある。
もちろん、昨今、インターネットやSNSの浸透によって、以前よりも気軽に「性」の情報やコンテンツに触れることができるようになってはいるものの、その根深い通念はなかなかなくなっていないと私は感じている。
別にその通念が完全になくなることを望んでいるわけではないし、非難しているわけでもない。
けれど、「性」の話は家族の前でしてはいけないタブーであるとか、「性」をオープンに話している人はちょっと品のない人だとか、いわゆる性産業に従事している人を白い目で見てしまったりとか、そういう観点によって、「性」という本来、人間が生きていく上で必要不可欠な要素としてもっと多様に理解されるべきなところが、ないがしろにされているような出来事に出くわしたとき、私はモヤモヤして違和感を持ってしまう。そして結構日常的にその出来事に遭遇することが多い。だから余計モヤってしまうのだ。
そんな違和感を持って生きている中、私はとても素敵な歌に出会った。
「SAY KOU SHOW」の歌
メモ少年さんによってプロデュースされた秋山歌謡祭2013。
そこの第1曲目に流れた楽曲である。
この曲を聞いたとき、私はもうほんとに涙ちょちょぎれながら笑い転げてしまった。それと同時に涙が出るほどに感動した。
「性交渉」
それはとても「性」に関わるセンシティブな表現で、一歩間違えれば下品だとそんなこと口にするものではないと、叩かれてしまいかねない。
そこを秋山さんは
「SAY KOU SHOW」
そう表現の仕方を180度変え、かつ、トークにするのではなく音楽にのせたことで、「品がない」という論点の土台に乗ることもなく、もはや音楽、芸術としてのコンテンツにしか見えなくなってしまっている。
「SAY KOU SHOW」
楽曲中で連呼されるその言葉は、最初こそ、本当に世間一般的にその言葉を聞いたときの卑猥で下品ななんだかネガティブな印象を受けてしまうのだけれど、その音楽の世界観にだんだんと飲み込まれていくうちに、ゆってぃ夫婦と同様、「SAY KOU SHOU」
そう、音楽に合わせながら、さもあたりまえのことのように、いつのまにか一緒に口ずさんでしまうという中毒性がある。
さらに感動してしまうのは
そうやって「SAY KOU SHOU」という言葉を連呼させて、その言葉自体の違和感を排除しながらも、それと同時に、ゆってぃ夫婦という、一夫婦の性生活の具体例を音楽の中に取り込むことによって、さらに「性」というものを私たちに身近に感じさせてくれる。
音楽なしでゆってぃ夫婦のなれそめをインタビューのまま語るとなると、それは生々しすぎて、受け入れがたくなってしまうと思う。
けれど、それを音楽にのせ、かつ笑いの中に浸透させることで、その生々しさが中和され、けれど完全に消えてしまうわけではなく、一スパイスとしてその歌詞がより一層際立ち、違和感のない形で私たちはそれを身近に享受することができる。
さらに「SAY KOU SHOW」の言葉とメロディー、それだけでこの歌が終わらないということを隠喩的に指し示すことができているのだ。
本当に目からウロコだったし、感動だった。
けれどもそれでだ、ここで終わらなかったのだ。
そうやって「SAY KOU SHOU」という言葉と、実際の性生活を視聴者側に身近なものにさせていきながら、さらに、秋山さんは楽曲の歌詞を通じて私たちに問う。
「交際してSAY KOU SHOU、それともSAY KOU SHOUして交際」
「結納してSAY KOU SHOU、それともSAY KOU SHOUして結納」
「ツイートしてSAY KOU SHOU、それともSAY KOU SHOUしてツイート」
「消灯してSAY KOU SHOU、それともSAY KOU SHOUして消灯」
もう途中からは何がなんだかわからなくなるくらい意味わからないのだけれど、それでも、よくよく落ち着いて聞き直してみると、こうやって歌詞を通じて「SAY KOU SHOU」のタイミングを、視聴者に問いの形で投げかけることで、ここでも隠喩的に、私たちは「性」の多様性を受け取ることができるのだと思った。あくまで「SAY KOU SHOU」のタイミングは人によってそれぞれで、「SAY KOU SHOU」自体も人によってそれぞれで、みんな違って、みんないい。みたいなそんなメッセージを私は勝手にでも受け取ってしまって、最後にはもう、笑いの涙が感動の涙に変わっていた。
人生で、こんなにも陽気に、かつ、下品で露骨ではなく、音楽という芸術に浸透させることによって、こんなにも素敵に「性」について表現された歌を私はまだ知らない。私がモヤモヤと感じていた「性」の違和感を一気に吹き飛ばしてくれた歌だった。
それに、この秋山歌謡祭、テレビで初の取り組みであるにも関わらず、第1曲目にこのチャレンジングな歌を持ってくる勇気にもう脱帽だった。
この歌を通じて、私はさらに秋山さんのことが大好きになった。
Are you KENZEN? 〜僕らの魔法〜
さらに、私が衝撃を受けた歌がある。
それは、テレビ東京で放送されている「ゴッドタン」という番組で、ロバート秋山さん率いる「KENZENコブラ」のメンバーが披露した楽曲「Are you KENZEN? 〜僕らの魔法〜」である。
私はオンタイムではなく、インスタのリールでたまたまこの曲を発見したのだが、こちらも笑いと同時に感動、そして秋山さんへのリスペクトがさらに高まった一曲だった。
※youtubeでは音源だけ。一応私が観たインスタのリールURLも貼っておく。
※インスタリールURL
https://www.instagram.com/reel/C2mM0FOrDV4/?img_index=yusuke_106
世の中、本当に毎日のように、芸能人の不倫や、性の問題がニュースに取り上げられており、私もよくそのニュースを見ながら、それらによって傷ついている方たちのことを想像して胸がキュッと苦しくなる。
けれどそういう問題って、たとえば「不倫をするな。」みたいな正論だけじゃ解決しない根深い要素があると思っていて、その要素は「不倫」だけじゃすまされないいろんな要素が複雑に絡み合っていると私は感じていて、だからこそ、そういった問題に対して、新しい角度からの提案を私たちに提示してくれた秋山さんにまた私はリスペクトの念を抱いてしまった。
「事前に抜イトケ!」
その痛烈なセリフから、この楽曲はスタートする。
「抜きゃいいじゃん」 (フー)
「え、なに?意味わからない。」と最初は思うのだけれど、連呼される「抜きゃいいじゃん」という言葉によって、秋山さんは「抜く」ことの大切さをこの楽曲を通じて伝えたいということをまず、理解することができる。
ここでも、露骨な表現である「抜く」という言葉が、音楽にのっていることによって、「SAY KOU SHOU」の歌と同様、かなりオブラートにその言葉を受け止めることができる。
けれど、この「抜きゃいいじゃん」のあとに入れられている「フー」という合いの手に、最初からのれる人なんていないと思う。
だって、「抜く」だけじゃ何にも解決にならないでしょって、最初はきっと誰もがそう思うと思うから。けれど、、。
「一瞬で全てを手放すリスク」
「家族のためにやる儀式」
楽曲を聞きながら、陽気なラップ調の歌詞の中に、上記のような見ている視聴者側に非常に大きな危機感を感じさせる歌詞が、時折、目立ちすぎることなく入り込んでいることに気づく。
この「目立ちすぎることがない」というところが、非常に重要だと私は思う。人は誰でも、まだ実際起こってはいない出来事を、想定される危機感だけを全面にあおられて指摘されれば、誰だって、耳を塞ぎたくなるものだ。
あくまで「抜く」という行為を歌詞の大部分に置きながら、時折、危機感を過剰に押し出しすぎることなく、シンプルな言葉で提示する。
そして、それを芸能人で、スクープを取られる可能性が高い秋山さんが、その意味を一番理解して毎日を生きている秋山さんが、魂を込めて歌っているところに、強固な説得力が生まれる。
気がつくと、いつのまにか
「抜きゃいいじゃん」
「フー」
そういって口ずさんでいるから、本当にすごいと思う。
この曲を聴いたあと、この曲について話している秋山さんのラジオを拝聴したのだけれど、本当に多方面からも称賛の声が溢れていたらしい。
本当にうなづける一曲だと思うし、私的に何なら、この曲は、中学生とか高校生とかの性教育の中で、課題曲として取り入れるべきなのではないかと勝手に思ってしまった。
というのも、ちょうど先日私は上記の「射精責任/ガブリエルブレア著」についての本を読んでいたばかりで、そこには男性側の「無責任な射精」が起こしうる危険性について事細かな記述があって、それを読みながら、そういう「無責任な射精」を予防していくためにも、とても画期的な楽曲だと、心から思った。より多くの男性にこの歌が広まっていくことを切に願うばかりだ。
何より、こういったあまり人々が口に出さない「性」の課題への提案を、真っ向から正論として、上の立場から、人々にぶつけて押し付けるのではなくて、あくまで笑い、音楽という視聴者側に親しみやすいキャッチーな入口を利用して、大真面目に視聴者側の立場にしっかりと寄り添いながら提案を行う姿勢に、本当に心からリスペクトだった。
ロバート秋山の 俺のメモ帳!on tuesday
このラジオは、秋山さんが毎週火曜日に配信していて、私がなんだか気分が乗らないな、憂鬱な気分だなと思ったときに愛聴しているラジオである。
ここにも、私が秀逸だなとリスペクトしている「性」の世界観がある。
それは配信の中に組み込まれている「ロバート秋山の性欲情報」のコーナーである。
以前は、この性欲情報のコーナーは、あくまで秋山さんの性欲をどう処理しているかという日常が配信されていたのだが、最近、視聴者側にも募集がかけられるようになった。毎週多くの「リスナーの性欲情報」の録音が寄せられ、その一部が、視聴者の性欲情報として配信されている。
とにかく、この性欲情報、秋山さんしかり、リスナーさんのセンスが抜群だ。もはや、笑いを通り越して、そのセンスの高さに過剰な嫉妬心さえ覚えてしまう。
この性欲情報を秋山さん自身が配信するにしろ、リスナーさんが投稿するにしろ、秋山さんがこだわっているポイントがあって、それは「性欲を処理する」「抜く」などといった、巷でよく使われている自慰の行為を示す言葉を使うのではなく、あくまで「性欲を分解する」という表現に統一していることである。
これは実際、性欲情報を視聴者側に募集する際に、事前に秋山さんがお願いしていた強い要望であった。
そして今現在、配信されているリスナーの性欲情報にはこの表現が多用されているのだが、ただ「分解する」その部分だけを統一しただけにすぎないのに、それだけで、もちろん面白さと視聴する側の耳になじむ感覚が数倍にも増しているので、本当にすごいと思った。
「分解する」という表現を使うことで、はじめて俺メモを聴く視聴者であっても、何ら違和感なくその情報を耳に受け取ることができる。普通に聞いたら自分の自慰行為をオープンに話しているという、現実ではありえないほど卑猥な話をしているのに、あたかも、それは話されるべき情報で、聞き手側も普通に受け取ることがあたりまえであるかのように錯覚する。
この「錯覚現象」を私は心からリスペクトしている。
本来、こういった「性」の話って、錯覚であってはいけないのだ。
もちろん、相手を不快にさせたりすることはもってのほかだけれど、人間、生きていればどこかで「性」の問題には遭遇するし、要所要所でちゃんと周りに共有したり、相談したりしながら生きていかないと、そうやって自分の中だけで完結してしまったことによって、自分を、誰かを傷つけたりしてしまったりして、悲しい結末を迎えてしまうことだってある。そういうことって、「性」をタブー視する傾向のある日本社会では大いにありえることだと思う。
だからこそ、下品、卑猥みたいなイメージの沸きにくい「分解」という言葉を使用し、「性」について話すことを、まるで世間話をしているみたいな、日常レベルにまでハードルを下げているこの性欲情報のコーナーは本当に偉大で、私のように「性」に対して違和感を持ちながら生きている日本人の価値観を変えるキーポイントになるのではないかと勝手ながら思っている。
さいごに
私はこの秋山さんの「性」の世界観に触れることによって、自分で自覚していたわけではないけれど、「性」に対するマインドが変化していたらしい。
うれしかった出来事を下記に綴っておく。
先日、ある友人と会ってカフェで話していたとき、何気なく友人が私に、「性」についての悩みを打ち明けてくれた。その友人は結婚していて、その後の旦那さんとのレスについて悩んでいたらしい。
それを聞いて私は、大真面目に、けれど、あまり露骨になりすぎないように、秋山さんのように笑いや表現の仕方を工夫しながら自分なりに一意見として精一杯考えたアドバイスを話した。そしたら友人は、さらに詳細にそのレスの状況を語って、私はそれを別にいぶかしがることなく、あたりまえのように普通に受け止めて聞いた。そうやって何度か議論を交わし合って、時間が経って、やっとひと段落ついたとき、その友人が私に言ってくれた。
「こんな話したの私はじめてです。今まで誰にも相談できなくて、というかそもそも相談するべき話じゃないなって思ってて。こんなにラフに相談してもいいものなんですね。」と。
「え、あたりまえじゃない?」って言いかけて、そう思った私の背景には秋山さんの"性"の世界観が大きく影響している(上記2曲を最低100回以上リピ&毎週性欲情報)という、あまり一般的ではない状況にあることに気づく。
「ほんと、すっきりしました。話せてよかったです。ありがとうございます!」
その友人は私にこれまでで一番といっていいくらい感謝してくれているように見えたし、なんだか心に刺さった矢が取れたようなすがすがしい笑顔を見せていた。
別に話したからって、その友人のレスの問題がなくなったわけじゃない。
あくまで共有しただけ。
けれど、そうきっと、この友人のような立場にいる人って、日本社会にはたくさんいるのだ。自分が頭を抱えている「性」の悩みを、違和感を、自分の内側に隠したまま、誰にも言えずにモヤモヤしている。そういう状況から抜け出せない人。かつて自分自身もそうだったように。
別にすべてをおおっぴろげに話す必要はないと思う。
それに、自分が話す相手が「不快に感じるかどうか」というラインはちゃんと相手に合わせて配慮しなければならない。
秋山さんが私たちに配慮してくれているのと同様に、言葉の表現を選んで、ときに笑いの力を使って(音楽までのせるのはなかなかハードルが高いけれど)。
けれどそうした配慮が広がりながら、少しでもそういった悩みを完全に解決しなくてもいい、共有できるだけで、その友人や私が感じていたような違和感は徐々に変化していくのではないかと思っている。
いずれにせよ、そういう視点を私に与えてくれた秋山さんの"性"の世界観には本当に感謝しているし、今後ももう少しラフで多様な「性」についての考え方が受け入れられるようになればと切に願う。
そして今現在、NHKという大河ドラマにも挑戦する一面もありながら、こういった「性」の課題に果敢に挑戦している秋山さんに大きなリスペクトと、影から大きな声援を送っている。