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喜怒哀楽の「怒」は要らない?

あけましておめでとうございます!へび年ですね🐍年女のはるねずみです。今年もどうぞよろしくお願いします。

月並みですが、本当に毎年毎年あっという間すぎて・・・2024年は特に、何もできないまま過ぎていったなぁという感想です。

振り返るようなことも、そこまで多くなくて。ただあるのはやり残したことばかり。「あとでもっと肉付けしてから投稿しよう」と思っていたnoteの下書きを溜めるだけ溜めた。そんな、やりたいこと・やるべき(と自分で思っていること)に追われ続け、転びそうになりながら逃げるように走り去った一年でした。

まぁ、過ぎたことをグダグダ言っていても仕方がないので・・・!


とは言いつつ、新年最初の投稿がいきなり暗いのですが、すみません(;'∀')
(いつ投稿しようが明るい楽しい話題の方がはるかに少ない私のnoteなのですが苦笑)


皆さんは2024年、どんな一年だったでしょうか。何かやりたいことや、初挑戦したこと、嬉しかったことや、おめでたいこと、誰かに話したくなるようなことなど、色々あったことと思います。

「2024年どうだった?」と言われても、「○○で○○で○○な○○って感じの一年でした!」と一言で説明するのは難しいですよね。

今日私が話したいのは、喜・怒・哀・楽という、人間が持つ4つの感情を、ありのままに表現できることって幸せなことなんだなぁっていうことです。

もちろん、私にもちゃんと喜怒哀楽の感情はありますし、むしろその起伏の激しさにおいては人並み以上だと自負しています。

少しのことで涙が出るくらい嬉しくなったり、よく知らない誰かのたった一言に傷ついて哀しくなったり、ルールを守らない自分勝手な人を見てイライラしたり、時間を忘れるくらい趣味に夢中になったり・・・

落ち込んでは喜んで笑顔になっての繰り返しです。気分はコロコロ変わります。



でも、私の中で意識していること、自分の中で守るべきルールとしていることがあります。

それは、「否定的な言葉を発したり、不機嫌な態度をあらわにしたり、誰かを攻撃したり、怒りの感情をむき出しにするようなことはしない」ということです。

言われたくないことを人から言われたり、不快に感じることをされたり、理不尽に怒りをぶつけてこられたりすると、私の中にも「怒り」は芽生えます。しかも、先ほど話したように起伏がめちゃくちゃ激しくて、怒りの沸点は人よりだいぶ低いので、すぐカーッと頭に血がのぼります。

それでもたいていの場合は、それを相手に悟られないように、グッと飲み込みます。

なぜなら、「怒り」を表に出しても、良いことはほとんどないからです。どんなに相手に非があったとしても、そこで「怒り」を出したところで、事態が終結するわけでもなく、むしろさらに炎上して厄介な問題に発展することの方が多いと思うからです。しまいには、自分の方が悪者になってしまうこともあるかもしれません。

一つの問題において誰が良くて悪いかどうかは、誰がどう見るか、当事者それぞれにどこまで発言権があるかどうか、によります。裁判所でもない限り、平等にそれぞれの言い分を聞こうといないと思います。声が大きい方、言葉数が多い方が有利です。

とにかく、「怒り」をなるべく自分の中から外に出さないようにすることが、対人関係を円滑で平穏なものにする上でも、社会生活をソツなく送る上でも、大切なことだと考えているんです。

それは、いい歳をした大人、ましてや、どうしても他人と比較して劣等感を感じてしまう私自身にとっては、絶対に守らなければならないことのように思えるんです。そういう人としてのマナーを守って初めて、他人とやっと対等に付き合えるというか・・・(もちろんこれ以外にも、守らなければならないことは沢山あるし、実際守れてないことも沢山あるのですが。)



ただ、去年一年は特に、その感情を抑える・・・もっと強い言い方をすると「殺す」ことが多く、メンタル的な意味でつらい一年でした。

「抑える」の場合は、まだその感情の存在を認めつつも隠す、という比較的優しい響きに聞こえます。あってもいいけど、でもなるべく見えないようにしたほうがいいよね、的な。

一方、「殺す」の場合は、その存在すら認めず、隠すというよりも消す。なかったことにする、それぐらい強い響きに聞こえませんか?

私が「怒り」を抱いてしまうと、それまで大切に大切に積み上げて守ってきたものが、ぜんぶ崩れてしまう。多分一瞬で、めちゃくちゃ簡単に。その表現方法がたったの一言、たった一つのため息でも、「怒り」をあらわにしてしまったら、終わりです。

それが分かっているからこそ、私は「抑える」を通りこして「殺」しました。何度も。

何度も、喉まで出かかったことはあります。

それでもそのたびに、「怒り」を出してしまったあとのことを瞬時に想像して、飲み込んできました。



そうすることで、私が一番恐れていたことは、なんとか回避して、また新しい年を迎えることはできました。

それでも、やっぱり息苦しさは感じます。

喜怒哀楽の感情、喜と楽はポジティブなものだし、基本的に他人に迷惑がかかりにくいから良いものとして・・・。「哀」も、致し方ないものとしてまだ許される感情だとして。では「怒」は?

それも、状況や理由によるかもしれないけど・・・

でも、怒っている人を見て、楽しいとか嬉しい気持ちになる人は少ないと思うんですよね。

私自身、イライラしている人がそばにいるとものすごく不安になったり、勝手に「自分のせいかも」などと思いこんだり、頼まれてもいないのに機嫌を取ろうとしたり、そのせいで空回りしながら神経を擦り減らせて、めちゃくちゃ疲弊します。

怒っている人は苦手です。

だから自分自身、「怒っている人」にならないように必死になります。

かといって、じゃあ喜怒哀楽の「怒」が存在すること自体が「悪」なのかというと・・・ハテナです。

喜ぶことも楽しむことも哀しむことも、それと同じくらい怒ることも、人間として自然に抱く感情のはずです。

嫌なことをされたら怒る、嫌なことを言われたら怒る。何も理由がなくていきなり他人を傷つけるのは良くないけど、何か危害を加えられたとき、あるいはそう感じたときに、怒るのは正常だと思います。

「怒り」が他人にマイナスな影響を与えるからといって、そのせいで空気が悪くなり、人間関係に悪影響だからといって、「怒り」を感じさせないように人間の思考回路を改造できるとしたら、それは良いことなのか。

・・・って、ここまでいくと、ちょっと極論すぎますね。



でも、「怒り」が存在するからこそ、他のプラスの感情も生まれるんだと思うんですよね。

他人に迷惑をかけないように、何より自分が生きやすくなるように、上手にコントロールすることは大切なことだとしても、その存在自体を否定まではしなくていいんじゃないかなって思うんです。

と、言いながら、話を戻すと私は自分で自分の「怒り」を否定していたんですけどね。

でも、それも一応”自分のため”ではありました。

自分が「怒り」を中から外に出すことで招く結果と、怒りを殺すことで自分の心に刻まれる小さな傷とを比較したんです。後者の方がマシだと思ったから、それを何度も繰り返してきました。

それで最悪の事態を避けて、表面上は平穏でいられるならいいと思ったんです。「怒」を殺しても、喜怒哀が残るならそれでいっか、と。



ただ実際は、そう単純なものでもないような気がし始めました。

「怒」を殺すたびに、その他の感情も少しずつ影が薄くなっていったというか、心の感度が落ちていくような、気のせいかもしれないけど、そんな気がしたんです。

一番要らなさそうな、悪い影響しかなさそうな、ない方が平和そうな感情なのに、それを消したことで他の感情にまで影響が及ぶとは。



私が「怒り」を無理やり飲み込むとき、目の前で、たった6秒間黙ることもせず、次から次へと「怒り」を外へ外へと出していく相手を見て、虚しくなりました。

他人の「怒り」を、トゲのある言葉を、傷ついても受け止めて、やり返さずに黙っていても、ほとんど意味をなさない。それどころか、私が自分の「怒り」を殺せば殺すほど、その隙間に他人の「怒り」は容赦なく入り込んできます。

「怒り」に「怒り」をぶつけて、もっと大きな「怒り」として燃え上がらせたくはない。数秒黙れば大抵は収まるような瞬間的な感情の爆発のために、それまで時間をかけて築いてきたものを破壊して吹き飛ばすのは避けたい。

でも、自分が「怒り」を飲み込んでも、それ以前より状況が良くなることはあんまりありませんでした。ギリギリ回避できているに過ぎなくて、結局いつ導火線に火がつくか、びくびくしながらやり過ごすだけです。

「怒り」にたいしてどんどん敏感になり、何か発言することも怖くなります。相手が何を考えているのか、自分が何を言うべきか言わないべきか。神経を使います。

そうまでして自分が守ろうとしているものが何なのかさえ、だんだんわからなくなってきます。



人間として、誰もが自然に抱く感情。そこにあると認められている4つの感情の一つ。それを殺さなければならない関係性とは健全なのか。

相手がどう思うかどうかや、相手にぶつけた後にどうなるかを心配せずに、自然に沸いてきた「怒り」を自然に出せる人って、健康だなと思います。

目の前にいる人が、自分の喜怒哀楽を受け止めてくれるという信頼があってこその態度だからです。素直に甘えられている証拠です。

自分で言うのもなんですが、私は中学校、高校と、反抗期らしい反抗期はありませんでした。ネット掲示板にハマって携帯電話の使い過ぎで怒られたことや、友達と遊んで帰りが遅くなったりして怒られたことも1度だけありましたが、そこまで不良っぽいことはしたことがありません。

本当に心から思っている不満や怒りをぶつけたとき、どんな結果が待っているかが想像できたからです。怒鳴られたり、下手したら手を上げられたり、家から追い出される可能性もあったからです。

そんなリスクを負ってまで反抗する勇気はありませんでした。当時も今と同じく、自分の中の大きな感情を抑え、殺していたんだと思います。


だから、そういう意味では私にとって感情を殺すこと自体、今になって始まったことでもないのかもしれません。

テレビドラマとか外に出たときとか、友達や恋人、家族に悪態をついたり、不機嫌をあらわにしている人を見ると、ドキッとします。「すごいなぁ」「よくできるなぁ」と率直に思います。そして、そういう態度を許す友達や恋人、家族に対しても驚きます。

「えっ、そんなことが許されるの・・・!?」と。

私が同じことを誰かにやったら、それでパッツリ縁が切れてしまうことが容易に想像できるからです。感情を殺すことで成り立つ関係性があると知っているし、むしろそうじゃない関係性は経験上ごく希少だったからです。



他人の評価を気にしすぎって言われたらそれまでなんですが・・・

プラスな感情もマイナスな感情も、そこにあっていいものとして自分で認め、信頼する相手にたいしてはそれを素直に吐き出せるって、めちゃくちゃ理想です。もしそんな人間関係が築けたら、すごく幸せだろうと思います。

哀しみや怒りを、無理して笑いに変えたり、ポジティブな言葉や思考に捻じ曲げたりしなくても、哀しみも怒りもそのままあっていいものなんだと、言ってくれる人がそばにいてくれたらいいですよね。



最近、職場の親しい人達での飲み会があって参加したときに話題になったのですが、「友達」ってなんだろうと改めて考えました。

親しくしてくれている人の前で「私には友達がいない」なんて言うと、めちゃくちゃ失礼だと思う反面、私がその人達の事を勝手に「友達」だなんて言っていいのかどうかもわからず、悩みます。

こんな風にいうと、控えめというか謙虚ないい人っぽく聞こえるので、もっとちゃんと本音っぽい言い方をすると・・・

私は「友達」という言葉自体が、今はあまり好きじゃなくなりました。

「友達」というのは、なんとなく、何でもかんでも共感したり同調しなければならない存在というイメージがあって、そういう関係性って疲れるからです。

気分がコロコロ変わるように、そのとき誰と一緒にいたいかとか、何をして過ごしたいかとかどんな価値観でいるかとか、色んな影響を受けながら、常に少しずつ変わります。

だから、何かのきっかけで一時的に距離が近くなったとしても、ず~~っと「友達」でい続けなければならないって、お互いにストレスだと思うんですよね。

「友達」の定義とかイメージは人それぞれだと思うのですが、私はこれまでの人生で、こんな歪みまくったイメージを形成してしまいました。

でもその代わり、「仲間」とか「同志」のような言葉は好きです。ある共通の目的や目標があって、そのために力を貸し合ったり支え合えるような存在。お互いが一緒にいることでメリットがあるからこそ、優しくも厳しくもできるような。

「利害関係の無い友達が本当の友達」っていう風によく世間では言いますが、私はむしろ、利害関係のある仲間の方がいいのかなって思えてきました。

「学生時代にできた友達は利害関係がない本当の友達」とも言いますが、結局、「クラス(部活)で孤立したくないから一緒にいる」という利害が合致して「友達」やってたこともあります。その上で、言いたいことも言えず無理やり関係を続けることで、「利」より「害」の割合多くなってない?ってこともありました。


利害関係のある仲間がいたら、頑張るモチベーションになります。

でも、欲を言うなら、「喜怒哀楽」を遠慮せず出せるくらい、気の置けない存在もいてほしいって思います。

じゃあ、そういう人のことを何と呼ぶべきなのか???

先述の飲み会で、「友達はいないけど、ここにいる人達は仲間だと思っています」と苦し紛れに発言した私が言われたのは、「(私が友達だと思ってきた人たちは)”知り合い”なんじゃない?」です。

無理して感情殺しながら付き合う人=友達、と思いながら生きてきたけど、そうじゃなくて、「知り合い」と定義すればまた話は変わってくるのかもしれません。

利害関係がなく喜怒哀楽を遠慮せずに出せる人=友達と定義し直すなら、「友達」欲しいと思えます。

って、そこまで人数絞ったらそれはもう「友達」通り越して「親友」と呼ぶのかもしれませんが・・・

まとめると、私は「知り合い」はなるべく少なく、「親友」をせめて一人、「仲間」はその時々に応じて・・・欲しいなと思います。



健全な人間関係って難しいですね。

難しすぎて、全部投げだして逃げたくなることもしょっちゅうあります。

友達なんて作らず、死ぬまで一人でも別に困らないんじゃないかななんて、この歳で特に病気とかもしてないからこそ言えてしまうのかもしれません。

でも、人が人を助けたり、自分も誰かの言葉や差し伸べてくれた手に救われたりするたびに、やっぱり捨てたものじゃないって思い直します。(最近アニメ沢山見てて、そのたびに人と人の絆に感動してます)

難しいけど、その分失敗して悩んで頑張る価値があるんだって思います。



何が言いたいのかわからない記事に、早速なりました。←

でも、新年一発目のこの記事で、私は「怒り」を始め、色んな感情吐き出せたかなって思います!

2025年、どんな一年になるのやら。先を思うと不安しかないですけど・・・

ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』でみくりのお母さんが言っていたように、正解とかゴールなんてものがないからこそ、”過程”を楽しんだらいいのかって思います。

常にそんなポジティブ思考は難しいと思うけど、困難にぶち当たったときにはその言葉を思い出して、そのときの自分の感情を自分だけは否定せずに認めて、その上で「どうしたら楽しくなるか」を考えながら、一歩ずつ模索していこうと思います。



ふぅ・・・

書き始めはまさかこんなポジティブな話で終わるとは思っていなかったのですが、noteにぶわ~~~って書いてると、なぜかだんだん気持ちが前に向いていくから不思議です。

セルフメンタルケア??(´▽`)

いや、そうじゃないです。

これをもしチラシの裏に書いていたら、たぶん前向きな言葉を書く理由がなかったと思うし、どんどん真っ黒に塗りつぶされていたと思います。

読んでくれる人がいてくれて、その存在をこうやって書きながら思い浮かべることで信じられて、その気持ちがマイナスをプラスにしていってるんだと思います。

でもこれは、マイナス(哀・怒)を”殺す行為”ではなく、それらを包み込むプラス(喜楽)を”生み出す行為”と言えるのかもしれません。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!

新年早々思考回路が出口のない迷路状態な私ですが・・・

行き止まりの先に予期せぬプレゼントを発見できるみたいな、書いてる本人さえも結末が読めない(!?)このnoteの更新は、今年も続けてまいります。

改めまして、今年もよろしくお願いします!!!🦔

P.S. インフルエンザが流行っているらしいので、手洗いうがいをしっかりして、ときどきお湯に浸かって、暖かくしてしっかり眠って、元気に冬を乗り切りましょう。

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