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Weekly Journal (1/15-1/22)

怒りとは何か

ある程度のコンテキストが揃っていて、その対象に対して怒りを感じる人がいるというのは至極当然のことのように思える。それが生きる原動力となって身を削り在りたい未来を実現するのに駆動する想いへと昇華することもわかる。怒りは人を蝕むわけじゃない。むしろ、再生するエネルギーになる。

表面的かつ短略的に繋がりや物事の関係性を捉えている自分に気づいて、はっとする。1人1人に向き合っていたようで、そこに私の視点も情熱も、それを本当の意味で実践しようという心意気も、実際に虚像を結んでいたのではないかと今更ながら振り返る。あらゆるものを学び取ろうとする態度・自分のために何もかも吸収し成長し続けようという態度に欠けていたのかもしれない。目の前のあの人も、遠くで頑張ってる過去のプロジェクトメンバーも、それぞれがコンテキストを持って私の人生に登場し、多様なことを語り、見たいものだけ、言いたいことだけをいって、去っていく。それが連続的に起こると収集もつかないし、如何に生産性のあるプロセスを回すかそればかりに目を向けがちになってしまう。そういうことは極力避けていきたいし、私はどちらかといえば生産する行為より、それの潮流はどこからきていて何を目指しているのか、そもそも"それ"自体はなんなのか?について哲学志向で考えていくことが好きだから、シークエンスに伸びる日常にひねくれた種を撒き続けなければならないなと思う。

場所と空間の対立軸を湯葉のように境界軸を揺るがせることによって認識の差異を埋めたい。それはもっというと私の背景にある。
祖母との死別であると思う。
「アタリマエが崩れる・壊れる・止まる音を私は何度も聞いている」
これは私の最近の気づきだ。音なのか、色なのか、わからないけれど、失った音と色はそれからしばらくして元に戻ったけれど、それは確実に元のようではなかったことだけが確かに息をひそめて生息している。
これまでムーブしていた、単調な日常生活が、急に他者からの声かけか、寒い冬の日々を必死で駆け回っていたらふと暖かな光の灯る山小屋を見つけた時のようにそこにとまれと呼びかけのかかる、フリーズした生活が身に降りかかる時、それは確かな実感を歪められることのない私の意思を「確かめる」という行為なのだと思う。残すのか、確かめるのか。これは大きな主題になり得るはずだ。スクラップアンドビルドの都市開発を見ていて思う。失って初めて気づくことの方が多い、けど、それで本当にいいのだろうか。実際、祖母が亡くなってから祖母の生きた時代について祖母の語る言葉で聞き届けることが叶わなくなった今、後悔は根深く残る。

2024.06.03

創作行為とその過程

小さな活動でも、らしく振る舞わないということが何よりも大切で、如何に外部発信せず考え続けながら本質をついたプロトタイプを試行できるのかは考え続けたいと思った。それは目の前を走るプロジェクトを見ていても、停滞気味な研究テーマを眺めていても、脳裏を掠める課題である。先日のSDGsの話ではないけれど、社会が問題と扱っていることを、自分でそれらしく解釈し原体験も何もなく心動かされるわけでもないのに(当の本人は無自覚なこともあるが)短絡的なプロトタイプやワークショップフローなどのアウトプットを導き出しても何も意味がない、と思う。むしろ、そう考えている最中にも進行している主題と扱う問題点について頭を巡らせる、思考し続ける、ステップを踏まねば、それらの問題にいつまで経っても、当事者性を見出せず、空回りした解決策と銘打ったもどきがその場を立ち往生することになる。であれば、思考し続け、本質とは何か、本当にあなたが解決したい物事は何かを問い続ける必要がある。今の自分自身は、かなりそういった貧弱なアウトプットを出力するのに恐れて行動を意識的に止めている節がある。元々の性格を辿れば、魅せること・知られることに対するモチベーションが多分にあり、大人数のプロジェクトではこのアイデアやアウトプットが世の中に知られるとき、誰の名が1番に挙がるのだろうか、と大したプロジェクトでもないのに本気で考えていた。それに比べたら、今の方が正しいアウトプットのプロセスを着実に歩めていると思うし、刹那に駆ける行動は時として暴力的でありエゴイスティックすぎるために主題に誠実でない可能性を加味するならば、思考して止まる、は妥当な判断だ。

なにかをつくるのではなく、なにが素晴らしいのかを評価するということこそが「創作」なのである。

生々しい知性との出会い──石山修武『生きのびるための建築』書評

であるから、自らの世界の評価(解釈という意で主観の客観性)が露呈しかねない、その暴力性を飲み込んだ自己表現を行う思慮深さが私には必要なんだろうと。それに欠ければ、とりあえずやってみる、というこれまでの実践が無碍になる。

今は無駄に思えることも、将来的に見たら財産になり得る、といった言説は結果論でしかなく、今夢や目標を追うならば、無駄に思えることには消極的になって時間を削ることも1つの重要なタスクだ。それらと創作との両立こそが自らを駆動させる原動力と時間のソースに繋がる。

ー場所の記憶を可視化することに関してXXさんはどのように考えていらっしゃいますか。

場所が持っている記憶っていっぱいあるよね。それは例えば500年前にここに埋まっていた建築物であったりとかを可視化するということ?

ー空間と場所の差異に対して言及。考えている方針を提示。

可視化でなんとかなるかなあ、ナラティブが生まれたりお話が生まれたり、土地文献のアーカイブから出てくるような知識が溜まっているっていうことだよね。空間と場所の差異は非常にディベロッパーで問題になっているからよくこの辺の都市開発でその辺になんか江戸のときの文献ではよく分からない考えとかバーってかいて、江戸時代のこの辺の街はねーとかそれを役人にするとウケがいいみたいなことずっとやってる世界観があって。東急不動産とかよくやってるよね。俺もその辺りのことよくやってるから…。

ただ、場所の記憶って実は人間の寿命って結構短くて、場所の方が長いと思うんですよね。会社よりは人間のほうが長い気だと思うんですけど。場所よりは人間のほうが短いので。寿命が。そうなると、人間が上手く記憶を持っていられる時間っていうのはせいぜい70年くらいかもしれないじゃないですか。生まれてから70年くらいの記憶がオーバーラップしてこの街を創るとするならば、そのある一定期間をみんなにとって納得できるような形にするっていうのは実は計算可能なのかなと思いました。ある程度の時間スパンの可視化の問題。

まあ、可視化だけじゃないけどね。要はあれでしょ、センター街をぶっ壊して巨大ビルを東急不動産が立ててしまったら、そこにあった我々の青春みたいなものは全て消え去るわけですが、そういうときに空間として捉えたディベロッパーさんは一体どんな気持ちでショベルカーの絵を見るのか。でも東京オリンピックの最初のオープニング撮った人、いきなり鉄の珠をコンクリートが物壊していく様子が映し出されますが、あれは、都市の記憶をぶち壊して近代化を進めていくであろうオリンピックの中を人間はどう回避していくのか。市川崑の東京オリンピック見るといいと思う。あれをその時代を再現しようっていってNHKが昔3Dにしてどっかに持っていったことがあって、でも可視化してもあんまりピンと来なかった。何がピンと来なかったかというと、場所の記憶/土地の記憶ってものすごく大切なんだが、単純にアプリにしても3DにしてもVRにしてもしっくりこないので、実はそういうことを語らう居酒屋を創ってアーカイブを撮った方が面白いかもしれないし、やり方は自由なので面白いんじゃないでしょうか。

なんかね、場所の記憶って揮発していっちゃうものだから、そういうものをどうやって現代に残すのかっていうのは重要だと思いますね。70歳くらいのおばちゃんと20歳のお姉さんが居酒屋で飲みながら昔の話と現代の話を行う状況を創り出せるかどうかというほうが面白いのかなと思ったり。語りの要素、重要だよね。僕は現代の技術の研究をしているので例えばクラシック音楽のコンサートをやるときは例えば佐賀の曲をやるときローカルなテープを取り寄せてみたりすると、そこの民謡であったりだとかっていうのが実は作曲家が創っているのと同じような曲が幾つかあったりとかするんだよね。つまり、その人が小さいころにつくってこの曲にしようと思ったときにその曲のテープを探すと意外と同じ旋律が流れたりして、「ああ人類はやっぱり覚えていたものはそのまま出すんだな」と思ったりするわけですよ。そういう関係性は実は場所の記憶だと思うんだけど、現代の技術をやるとよくやる話なんだが、可視化しようと思うと意外と対話の中にしか出てこない。「喋らせる」、結構面白いですよ。

場所の記憶の話を聞いていて思ったんですけど、場所の記憶を創ったのは人間だから人間の創ったものが時代によって変わっていいって消えてしまうっていうのはいいんじゃないかなと思っていて。消えてしまうものを美しい物語にしてそれを可視化するというならばアートにするのがいいのかな、と思って。

XXさんとの対話より(2024.05時点)

ディレクション

受け持つ、探究チームのディレクションに悩む。1on1を進めて、色々なバックグラウンドを持つ同世代と話す。基本的に先輩の立ち位置であるから、それに準ずる形で知っている知見や結びつきそうなことを対話する。話せている感覚も言葉をキャッチボールして紡いでいる感覚もオンライン上で有することにかなりの苦労があるが、それでも話す。話していてわかるのは、同世代同士の探究だからといって、私が彼らに委ねすぎるのも違うのでは、ということ。初めは自主性のようなものを重んじた方が良いと思ったので、好きに議論を展開させていくよう取り計らったが、やはり問題に結びつけないと、何のための手段であるか曖昧になり、迷子になってしまう可能性が否めない。その延長線上の議論では、方法論に偏った、いかにそれらを周知させていくか?認知してもらうか?といった堂々巡りの学生団体がよく陥りがちな展開(ステレオタイプ)を生んでしまうので極力避けたい。また自身の経験則から、問題の要件定義とその分析、そこから導き出せる解決策は地続きで文脈の把握をした方が圧倒的に議論になるし、後々役立つから問題把握の方法論・可視化の実践は私から提示したほうが効果的だろう。加えて、私がこれまで取り組んでいたことでこういうことをやってきて、ここまでこんなことができる、という物事や社会の枠組み、個人が起こせる取り組みのバリエーション・許容度合いについては提示するのが良いだろう。notionなどでサイト形式でまとめて、一般化した上で提示したら個々人で取り組むネクストステップにも活かされそうだ。高校生の内の取り組みは事例を知らなければ殻に閉じこもり、傍観的にすごい、で終わってしまうことも多いから、ハードルを低くし行動を促せるようになるとベストだ。ディレクションはこれまで学生団体でやってきてある程度、理解したつもりになっていたが、これを機に如何に関心の近い人たちを同じ議論の土台に乗せていくかを模索できていて、とても楽しくなってきた。面倒だと思うことも多々あるが、その反面、思考の面白さ、答えのない問いに向き合う面白みを実感しつつある。事務作業は極力少なく、情報開示の塩梅を意識しながら3ヶ月を走り切りたいという思いでいる。

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