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448.文章は、たった一人に向けたラブレターのように

ペルソナの解像度が大抵の場合粗すぎるだろって話をこの前書いた。

先週、100人を超える人の前でまた50分間ほど話す時間があった。
そこで何を話そうかいろいろ考えていた中で、この表現が生まれた。

ラブレターを渡すように」。

あなたの文章は誰に向かって書いているのだろうか?
あなたのビジネスは誰に向かって届けようとしているのだろうか?

属性だけを書き並べた、どこか現実離れした人物像をペルソナに置いていないだろうか。

ラブレターを出す相手のことを思うとき、きっとその人が朝目覚めた瞬間に何を考えているのか、何を思って学校や仕事へ行く準備をして、何を考えて歩いているだろうか。

そんな細かい日常の一瞬まで想像を巡らせるはずだ。

世界でたった一人のために。

僕は文章を書いている。


届けたい人物像を限りなく細分化する

年齢、性別、仕事、趣味……そういった属性を書き並べても、それは属性でしかない。

一日のスケジュールを考えても、それは想像上の人ができただけで、弱すぎてペルソナにはなり得ない。

その人はどんな人生を歩んできた、から考えてもいいぐらいだ。

結局大事なのは属性ではなく、価値観

何を良いと感じ、何に価値を感じ、何を大切にして日々生きているか。
物事の選択の基準は何か。

価値観を創造することが大事である。

属性は外側。
外側だけでは顧客になることはない。

人は属性で物を買ったりサービスを利用したりするのではないのだから。

これ以上不可能だ、と思えるほどそのたった一人を細分化してみることをおすすめする。

「誰に」を決めて初めて「何を」が決まる

ラブレターを出す相手は鮮明になっただろうか?

そうしてようやく、何を伝えるかが明確になる。

属性だけしかわからない人にラブレターなんか出せないだろう。
その手紙を渡せるほど明確なこの世でたった一人がわかれば次は、「何を」届けるかである。

きっとある程度商品やサービスは決まっている人が多いかもしれない。

その上で「何を」というのは、これもまた物体のことを指しているのではない。

物体を通した何を届けようとしているか、だ。

ラブレターは手紙を渡したいのか?言葉を届けたいのか?
メールやLINEではなく、紙に起こした文字は特別なのか?
印刷したPDFファイルではなく、手書きである必要はあるのか?

それらを通して、何が伝わるのか?

ラブレターは手紙を渡しているのではない。
現象としては、手書きの文字を書き連ねた手紙を渡しているのだが、届けたいことはそうではない。

それが届ける「何か」の本質である。

その商品を、そのサービスを通じて何を届けたいのか?

届けたその誰かは、その何かが届いた結果どうなるのか?

その体験や感情までデザインすることが、「何を」を考える鍵である。

目に見えない想いや、不確定の未来図を、こうだと信じて提供しているのである。

コンテンツを信じること。
コンセプトに誇りを持つこと。
届ける誰かへの愛を大切にすること。

この辺を固めれば、きっとより洗練したものになるはずだ。

多分こういったことを、マーケティングというジャンルでモデルやフレームワークという視覚化と詳細化を行っているのだろう。

勉強あるのみ。

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