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美人

ミスコン

少し前ですが、「ジェンダーレス」「ルッキズム」「ダイバーシティ」といったキーワードとともに、大学のミスコンが廃止されるニュースを読みました。

多様性が認められるのは、とてもいいことです。

人は外見だけに価値があるのではないし、それぞれが、それぞれの特徴や天分を持っているのだと思います。

けれども、そんなことを言いながら、「美人は好きですか?」と言われれば、正直、好きですって答えてしまいます。

今の時代に、多様性を認めないとか、容姿だけで人の価値を決めるといった考えを持つ人は、ほとんどいないと思います。私もそうです。

けれども、人の行動を見ていると、美人云々とは違うかもしれませんが、男性であれ女性であれ、あるいは年齢を問わず、容姿のいい人に対する時のほうが、優しかったり、親切だったり、協力的だったり、というのは大なり小なりある、というのが現実だという気がします。

社会や制度やメディアという条件以外に、もっと心理的な面とか、生物としてとか、遺伝子的なことが関わっている気がして、論理や理性だけで判断できない難しい面があると感じています。

美しい顔?

「美しい顔とはどういう顔じゃ?」

芥川龍之介の「俊寛」の中で、そういう問いがあります。

「美しいということは、(中略)好みが違っているのだ」

「美人と云う事も、時代毎にやはり違う筈じゃ」

場所によって異なり、時代とともに移り変わる「美人」というものを、時代の表現として捉える場が、多少は残されていてもいいのではないか?私はそう思っています。

興味のない人は無視すればいい。異なる感性(ミスコンを認める人)の存在を、好きでなくてもいいから許容するというのも、ダイバーシティではないのか?

「俊寛」が発表されたのは大正11年です。100年以上前に、美というものが場所、時代、人の感性によって異なると表現されているところに、心惹かれるものがあります。

本筋とは違うところで、文豪たちが何をどのように考えていたかを想像するのも、読書の楽しみだと思います。

kindleでもいろいろ書いています。ぜひ、お読みください!


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