歌を忘れたカナリヤ
それは、朝ご飯を食べた後、食器を洗っているときのできごとだった。
リビングにあるTVでは、録画してあった「BS日本・こころの歌」が流れている。祖父と祖母はまだ食事中で、2人合い向いになって座っていた。
湿度の高い空気が充満したキッチンに、水道から流れ出る水と食器が重なり合って複雑で繊細な音を立てる。
その合間に、一瞬祖母の声が混じった。
「もっと大きな声で…」
何か注文をつけるような言い方であった。
その後の言葉は水音に掻き消され聞こえなかったが、どうやら祖父が歌っているらしかった。
「…出ないんだよ」と祖父が答える声が、寂しげな響きをもってうっすらと耳に届いた。
(何の曲だろう)と思った次の瞬間に、TVからソプラノの歌声が流れてきた。
そしてそのフレーズは、文字通り私の心をドキッとさせた。
「うーたをわーすれたーカーナリヤーはー」
『歌を忘れたカナリヤ』という曲。
そして、年齢を重ね、身体の衰えを嘆くことが多くなってきた祖父母。
以前の声が出せなくなってきた祖父母。
物忘れも、少しではあるが始まっているように思われる。
先程の歌が流れた後、祖母も祖父と一緒になって歌い始めた。
祖母の歌声をずっと記憶に残していたい私は、よく耳を澄ましてその陽気な声を聴いていた。
だが、その歌声は思いの外すぐに止んでしまった。
(あれ?)と思い祖母の座るソファにちらと目をやると、「高い声が出ない」「歌詞を忘れちゃった」と肩を落としてつぶやく祖母の横顔が見えた。
目線は下を向き、表情はよく読み取れなかった。
歌が好きで、地元の合唱団にも所属していた祖母には堪えることだろうと思う。
忘れられることは、相手の記憶から存在が消えてしまうということである。
それは、忘れられる方にとってはとても苦しく辛いことであるだろう。
けれども、本人にとっても忘れることはきっと同じくらいショックなことで、今までうまく付き合ってきたはずの自分の身体に裏切られたような感覚を受けるのではないだろうか。
祖父と朝食を食べている時、祖父は言っていた。
「この曲は小学生の頃に歌っていた歌だよ。恵まれていたよ、歌の世界にいられたからね」
幼い頃に耳にした歌、口ずさんだ歌は、一生を貫くほどの力をもって人を支えてくれるものなのかもしれない。
覚えていたかったことを忘れてしまうこと、いつか忘れられてしまうかもしれないことは、切ないことである。
忘れないでいて欲しいし、ずっとこのままでいたいと強く思う。
時間の経過が恨めしく思う時もある。
けれど、また新しく覚えなおせばいいのかもしれない。
また新しく、伝えてあげればいいのかも知れない。
少し忘れてしまったとしても、自分の声で歌えなくなってしまったとしても。
その曲が、祖父にとって大切なものであることには変りないのだから。
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