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痛みを抱えて生きていく¦「白ゆき紅ばら」
寺地はるなさんの作品を読んだ。
愛と理想を掲げた夫婦が営む「のばらの家」。行き場のない母子を守るための場所だったのに、その中身は「善意」とは、程遠い場所だった…。愛とは。正義とは。優しさとは。「のばらの家」の実態が分かったとき、あなたはきっと、打ちのめされる。
手に汗を握るように読んだ。物語が進む度に、どんどん息が苦しくなっていく。ページを捲るたびに、手を固く握り締める。
どうか…救いがありますように…。
その気持ちは、まんまと打ち砕かれた。
この物語を絶望だと、思ってしまったのは、これがただの物語ではなく、きっといまもどこかで起こっているかもしれない…と、思ったからだろう。
行き場のない母子を守る「のばらの家」
善意と愛と優しさの世界。
そんなのは、偽善だった。中身を見てみたら、信じたくないくらいに、ひどいものだった。
立場の弱さを利用した暴力。優しさという暴力。ことばのない、証拠もない、でも確実に傷をつけるもの。その人の「生きる力」を、どんどんと奪っていってしまうもの。
がんばって。負けないで。みんな同じようなことを、わたしに言う。この人たちがわたしに言ってほしい言葉は「だいじょうぶ」それだけだ。大人はけなげな子どもが好きだ。「ううん、だいじょうぶ。わたしは負けない」と強がってみせる子どもの心の傷を想像して、きれいなやさしい涙を流すことが大好きだ。
あぁ…。目を逸らしたくなる言葉がたくさんある。ほんとうに、その通りだ。どうして、わたしたちはいつも、自分が"なにか"をできる側だと思ってしまうのだろう。どうして誰かを救えるだなんて、そんな理想を掲げてしまうのだろう。
ほんとうに救って欲しい人は、ボランティア活動なんかで救われる訳がない。知らない誰かの歌を聞いて、なにが楽しいのか。
「誰かのために動いている」その自分に浸っていたいだけでは、ないのか。ぬるま湯に浸かって、良い気持ちになって、そのままわたしたちは、安心出来る場所へと帰って行く。
「ボランティアできて、良い一日だったな」なんて、人助けをした自分に酔いしれて。
「『自分を、なんだと思ってるの?あなたにはわたしたちを幸せにする力はないし、不幸にする力もない』うぬぼれるな。いつまでも自分が強者の側にいると思い込んでいるのなら、とんだ勘違いだ。わたしたちを何時までも傷つけられて泣いているだけのか弱い存在だと侮っているならそれは大間違いだ。あなたからは、もうなにひとつ受け取らない。わたしたちからは、もうなにひとつ奪えない。」
目を逸らしたくても、逸らせないくらいに、強い引力で、ぐさぐさと刺さる言葉がたくさんあった。わたしの目の前に心臓が見えるなら、きっと血まみれなんだろう、くらいに。
それでも、祐希は強かった。こんなことを言ったら、怒られるのかもしれない。それしか、選択肢が無かったのかもしれない。
それでも…大切な人を守るために戻ってきたこと。あんなにひどい環境で、生き抜いたこと。
わたしには、とても眩しく見えた。
どれだけひどい環境で育っても、どれだけ過去に恩恵を受けれなかったとしても、「いま」生きることには、なんの関係もない。
そんなの綺麗事だと思っていたけれど、そんなことはないのかもしれない。
「いま」どうするかを選択できるのは、自分だけだ。自分の道は、自分で切り開くしかないのだ。そこに、同情も哀れみも必要ない。
復讐は復讐で、幸せは幸せ。未来はそう言った。ならば痛みは痛みだ。幸せとはまったく別のもの。痛みを抱えたまま幸せを手に入れることも可能なはずだ。
これが、物語なのだと分かっていても、この二人にはどうか幸せになって欲しい。そう、願わずにはいられない。
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