シロクマ文芸部¦風に消えた言葉
十二月に入ってから、母の病状は一気に悪化した。年末まで、持つだろうか。
「美沙、いつも来てくれてありがとうねぇ」
母のか弱い、かすれた声が聞こえる。
「辞めてよ、お母さん。治ったらさ、旅行に行こうよ。」
わたしは、頬が濡れているのを感じながら、明るい声で言った。
あんなに、大嫌いだと思っていたのに、親の弱っている姿を見た瞬間に、こんなにも心を揺さぶられるなんて、思ってもいなかった。まだ、伝えられていないことがたくさんある。まだ、話し合えていないことがたくさんある。
「美沙、ごめんねぇ。応援してあげられなくて、ごめんねぇ。お母さん、あの時精一杯だったんだ。」
今、謝らないでよ。それはずるいよ。許しちゃいそうになるじゃん。美沙は、唇を噛んだ。血の味が口の中に広がる。まるで、心の傷みたいだ。そんなことを思いながら、何も気にしていない風を装って、美沙は言った。
「気にしてないから、大丈夫だって!また明日来るからね!!じゃあね、またね!」
これが母との最後の会話になってしまった。
母は、その翌朝静かに息を引き取った。安らかに眠った顔の母は、すごく穏やかに見えた。
「ねぇ、ずるいよ。一方的に謝ってきてさ、結局わたしの話何も聞いてくれてないじゃん。何も解決してないじゃん。それなのに勝手に病気になってさ……」眠っている顔に話しかけながら、涙が溢れてくる。
「もっと、話したかったよ。わたしだって、謝りたかったのにさ。ごめんね、お母さん。お母さんの期待通りに、育たなくて。でもさ、これもわたしの人生なんだよ。わたしの人生はわたしが選ぶんだよ。でもさ、やっぱり、やっぱり、お母さんに認めて貰いたかったなぁ。」
嗚咽が漏れる。涙が止まらない。
母は、厳しい人だった。母の期待に応えるために、地元では一番頭の良いと言われている高校に進学した。そのまま大学進学して欲しかったみたいだけれども、わたしはすぐに働いた。高卒で働ける所は大体体力勝負で、毎日ヘトヘトだったけれど、早く母から離れたかった。早く一人暮らしがしたかった。そのお金を貯めたかった。
当然のように、母は反対した。
「今時、大学に行かないなんて何を考えているの?将来、苦労することになっても知らないわよ。大体、おばあちゃんには何て説明するのよ?子育て失敗だって言われるに決まってるじゃない。お母さんの気持ち考えたことある?」
「お母さんはさ、わたしを何だと思っているの?お母さんを良く見せるための道具なんかじゃないんだよ。そんなに言うならさ、わたしのこと産まなきゃ良かったじゃん。」
激しくぶつかった。母もまた、祖母との関係で悩んでいたのだろう。大人になった今ならわかる。それでも、でも…。
美沙は、また唇を噛んだ。「しょっぱい……」涙の味がする。その時の母の傷ついたような表情を一生忘れることはないだろう。
母にまだ伝えられていなかったことがある。
「ねえ、お母さん。わたしさ、ちゃんと夢を掴んだんだよ。本、書いたよ。エッセイ本。母親との関係に悩む人へのメッセージも込めて、書いたんだよ。年末に出版されるんだ。読んで欲しかったなあ。」
母は骨になった。こんなにも小さくて脆い生き物だったんだな。美沙は、そんなことを思いながら、箸で母の一部を拾った。
「ねえ、お母さん。色々とあったけどさ、やっぱりお母さんとの楽しかった時間も忘れられないんだよ。不思議だよね。あの時、あんなこと言っちゃったけどさ、わたし、お母さんの子どもで良かったよ。産んでくれてありがとうね。」
美沙の言葉をかき消すかのように、風が強く吹いた。もうこの声が届くことはないのだ。
Fin-【1474文字】
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