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障害は同情するものではなく、解決するものだと思う。

障害は同情するものではなく、解決するものだと思う。そう思うきっかけとなった出来事は、思いもよらず発覚した、自分自身のちょっとした障害だった。

ある日の耳鼻科と聴力検査

2020年、最後の土曜日。お風呂に入っている時、耳に水が入って、そのまま水が抜けなくなってしまった。ずっと耳の中が、ゴトゴトいっていた。年末年始中、水が抜けないという事態は避けたかったので、年内の診察最終日である12月28日月曜日、とりあえず耳鼻科に行った。

お医者さんはすぐに水を抜いてくれて、耳の中のゴトゴトはすっかり消えたのだけど、一応耳の検査してみようと勧められた。

小中学校の時にも、耳の検査はしたことがあったけど、特に異常はなかった。でも、正直なところ、聞こえづらく感じたこともあった。だけどとにかく「異常あり」の紙をもらい、病院に行くことは避けたいと考えていた。

学校の聴力検査は3〜4人が横並びで座って、音が聞こえたら一斉にボタンを押すものだった。「ピーーー」という検査の音より、みんながボタンを押す「カチッ……………カチッ」の音の方がむしろ大きく聞こえた。だから、聞こえるような、聞こえないような、という時には、みんなの「カチッ」に合わせて、ボタンを押してクリアしていた。

耳鼻科でまず行ったのは、耳の中にゴムみたいなものを入れて、鼓膜の動きを調べる検査だった。看護師さんが、「おかしいなぁ」という感じで何度もボタンを押していたので、何か異常がありそうだな、という気がした。何やらお医者さんと、コソコソ話している。

その後、個室での精密な聴力検査をすることになった。その中では、当たり前だけど、今までみんなが出してくれていた「カチッ」の音がなかった。音が鳴っているのか、それとも鳴っている気がするだけなのか、よく分からないところがたくさんあった。この音は、自分の鼓動なのか、それとも機械から発せられる音なのか、その区別がつかなかった。

結果的に、私は「軽度の難聴」に該当しそうな感じだということが発覚した。普通の人の耳が100点だとするすると、私は75点くらいで、鼓膜は普通の人の3分の1しか振動していないそうだ。正直、なんかよく分からなかったけど、大体そんな感じだった。

普通の人より聞こえづらいという結果に、そういえば思い当たる節がいくらでもあって、何だか納得だった。だから、別にショックでもなんでもなかった。と、言いたいところだけど、本当は少し、悲しかった。

耳の不自由を感じた経験

正直なところ、聞き返しはかなり多い方だと思う。大勢の人が一度に話す時だったり、茶碗を洗っている時だったり、そういう雑多な音が流れる空間にいると、大声で何かを言ってくれていても、声が吸収されてしまう。「え、なんて?」という聞き返しがすごく多い。親しい人からは、「耳遠いんじゃないの?」と、言われることもある。冗談半分で聞き流した言葉も、冗談にできなくなってしまった。

リモートも苦手だ。機械からの声って、リアルの声よりずっと聞き取りにくい。音量をマックスにしていても、聞き取れないことがある。うまく言えないけど、音が小さくて聞こえないと言うより、音が識別できなくて聞こえないと言う感じ。

対面で会っている時には、表情もわかりやすいし、もう一度言ってくださいも言いやすい。でも、リモートは表情もわかりにくいし、聞き返しもしづらい。音に集中して、同時に小さな画面に映る人の表情にも集中して、何とか聞き逃すまいとする。それでも、聞こえない時は聞こえない。そんな時は、とりあえず適当な相槌を打つ。自分に意見を求められないことを、ささやかに祈る。

また、イヤホンをすると、小さい音量でも耳が痛くなる。耳の穴が小さいせいだと思って、小さいイヤホンを試したりもしたけど、必ず痛くなる。耳の入口とかではなく、鼓膜のあたりが痛くて、頭にまで不快感が伝わるような感じだ。

センター模試のリスニングでイヤホンを装着した時は、付けてられないほど耳が痛くなり、本番では特別にヘッドホンを貸してもらうよう申請した。ヘッドホンでも耳の奥は痛かったけど、イヤホンよりはマシだった。

障害なんて知りたくなかった

「難聴」は障害の一つとしても捉えられるけど、私はこれを障害とは思いたくなかった。それに「軽度」なのだ。軽度の中でも、軽度くらいの、ちょっと普通より聞こえづらい程度なのだ。こんなの障害には当たらない。ただ、ちょっと鼓膜の動きが鈍いだけだ。他人からすると、不便そうだと思われそうだけど、本人からすればそうでもないことがたくさんある。

聞こえなかったら、聞き返せばいいだけだ。リモートだって、ちょっと聞き取りづらいというだけで、聞こえなくてどうしようもなく困っているわけではない。イヤホンにしても「電車でイヤホン付けるってかっこいいなぁ」とか思うことはあっても、イヤホンができないからと言って、人生損したと感じたことはない。ヘッドホンを使えばいいし、どうしてもイヤホンをしないといけない時は、耳の後ろからコードをぐるりと引っ掛けて、音量をマックスにすれば、イヤホンを耳から浮かしていたって聞こえるし、問題なかった。

それに、何と言っても私としては、自分の声も他人の声も、普通に聞こえているはずだった。知らなければ、普通の耳だった。軽度だとしても、疑いありの程度だとしても、「難聴」なんてレッテルは、必要なかった。

解決策と障害の受容

だけど今は、知っているからこそできることもあると、そう思うようになってきた。私は今まで、イヤホンで耳が痛くなるのは、耳の穴が小さいからだと思っていて、小さなイヤホンを買っては試し、一ヶ月も経たないうちに捨てるということを繰り返してきた。でも、鼓膜に問題があると知って、もう普通のイヤホンは買わないことに決めた。その代わり、耳の後ろに装着する、骨伝導式のイヤホンを試してみると良いのかもしれない。そういう風に、ちょっとした不便を解決する手立てが見えてきたのだ。

それに、私は自分の耳に感謝して生きたい。普通の耳の人が、私の耳と普通の耳どちらかを選べと言われたら、多分100%普通の耳を選ぶだろう。でも、私は自分の耳でいい。100点の内75点しか聞こえていない私が、今まで聞こえていなかった25点の分が聞こえると、きっと今より聞き取りやすいだろう。鼓膜が普通に動けば、イヤホンも痛くないだろう。でも、生まれてからずっとこの耳だったから、この耳がいい。

今のところ、リアルの知人にこのことを公表するつもりはない。みんな受け入れて、今まで通りにしてくれるとは思うけど、ほんの少し、ほんの少しだけ、今までと違う感じになりそうな気がするのだ。わたしは完全に、今まで通りにしていたい。

でも、noteで公表しようと思ったのは、紛れもなく、誰かにこのことを知ってもらいたかったからだ。私にとって、知ってもらいたい気がするけど、リアルで言いづらい何かを発信する場がこのnoteであって、ある意味誰と話すよりも、正直に自分を語っている気がする(もし、リアルの知人がこのnoteを見ていたら、どうか見なかったことにしていただきたい)。

障害はかわいそうではない

私は、耳が普通よりほんの少し聞こえづらいからといって、かわいそうだなんて思ってほしくない。私は何だかんだで、私が好きなのだ。私よりずっと重い障害を持つ人も、そう思っているだろうと思う。障害を持った人は、変な同情なしに、こういう方法もあるよと教えてくれるような人を、求めているのだと思う。

「障害は個性」だなんてよく言われるようになったけど、個性と呼べるほど明るいものではないことも事実だ。実際、何かしらの不便はあるのだから。個性とまでポジティブに捉えなくても、良い意味で「ふーん、そうなんだ」くらいの軽さで障害を捉えられるような人、それでいて、必要な時には何かしらのサポートをしてくれる人、反対に、必要ない時には何の気遣いもしない人を、障害を持った人たちは求めているのではないだろうか。

私は明日から、小児科のクリニックで、発達障害を持つ子どもの支援をする予定だ。自分のこの経験が、何かしらの形でこの仕事につなげていけたらいいな、と思う。

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