完璧なタイミング
オチを聞いても全く笑えないことがある
「だから、”A” なんでしょ?んで”B” じゃん。だからそういうことなんだって」なんて説明を受けても
「うん、それはわかるよ。”A”で”B”なんでしょ。だからなに?」
そんな返事になる。
オチはそれまでのプロセスがあるから”オチ”る。
オチだけ聞いてもオチない。
プロセスを聞いていてもそのプロセスに「いない」とオチを体験できない。
プロセスを体感として理解していないと、或いは受け入れていないと、という風に言い換えられるかもしれない。
別にお笑いの話がしたいわけじゃない。
目覚めはそんなものかもしれない、とふと思って書いている。
きっと目覚めと呼ばれるものはお笑いのオチと同じようなものだと。
人生のどこかで何度となく繰り返されたのと同じセリフを違う場で聞いたとき、
「そうか、そういうことか」と突然深い深い理解が訪れる
すべてが腑に落ちる
目覚めに関する本を読むのは悪くはないが
それは目覚めのプロセスに気づいていないと
単にオチだけを聞いたお笑いのようなものだろう
気づきとは ジャッジではない
ライブでお笑いを見るのとそれを人伝で聞くのはまるで違う
インパクトも起きる体験の質も変わる
でも
無駄なことでもない
皆が笑うとき
独り首をかしげていた その同じ場で
いつか 今度
大笑いしている自分もまたいるのだろう
そして
ずっと知っていた自分に気づく
早くも遅くもなく
完璧なタイミングで
自らその時を その場を
整えたということを
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写真はきょんつーさまからお借りしました。
お写真の使用条件のフォローさせていただきました。言葉で語りえなかった部分を代弁して下さるようなお写真に出会えて感謝です。
ありがとうございます。
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