親はこどもの人生の責任をとれない
ミクロな視点からみたこの世界
わたしたちが見ている世界ではときどき凄惨な事件が起こります。
「なんで!?」って思わず声を上げるような理不尽に感じること、動機の想像が及ばないことが起こります。
そんなとき、犯人のプロファイリングが行われたり、幼少期の家庭環境が語られたりします。
それは犯罪心理学においては犯罪者の人格と共に幼少期の家庭環境が因果関係が強いとして重視されるからだと思います。
ただ一点前置き。
こどもは完全に親を選んで生まれてくる。
それがわたしのマクロ的な視点での結論です。
生まれた後そのことを自覚していることは殆どないけれど、波長みたいなものを感じて半ば引き寄せられるように、スピリットも魂も自分の選択によって肉体に入る。
その上で体験を、配役をするのと同様にシナリオも設定して生まれてきています(わかりやすく伝えることを優先したため幾分か語弊があるかもしれません)。
それをどう設定したのか、というのが本当のところですが、心理学的に言えば幼少期の体験がどのように影響して今回の事件に繋がったのか、それを紐解こうと人は試みるのだと思います。
そしてわたしはそれについて非常に興味がある人間で、これに関してはテレビやネットの情報に見入ってしまいます。
理由は単純に人間の力動が興味深いからです。
報道からの情報に過ぎませんが、事件を通して意図と結果を追っていくと色んな形での歪んだ愛の表現と、それを愛として受け取れなかった人たちの行動が見えてきて、切なくやるせない気持ちが湧くことがあります。
わたしは親に育てられる経験と共に親になる経験にも恵まれたので、両方の感覚にシンクロしながら見ています。
それは本当に複雑な感覚になります。
この記事を書いたきっかけとなったのは秋葉原無差別連続殺傷事件、それからこどもの逮捕後に親が関わった(それを報道された)幾つかの事件です。
犯罪に関わることを取り上げていますが、表題にかいた通りテーマはこどもという「ひとりの尊厳ある可能性に溢れた人間」とどう向き合うかということです。
こどもを犯罪者にしないためにはという話ではありません。
心の貧困が生まれる背景
感じたのは親が癒される必要があること。
親が与えたものにしろ他の人からのものにしろ、与えられたものをどのように受け取るかはどんなに幼くてもその個人に委ねられています。
与える人の意図通りに受け取らねばならない道理はありませんが、誤解が生じた場合修正を重ねること、つまり和解を試み続けることで柔軟さも生まれると思います。
それに一番大きく関わって基礎を築けるのは親と兄弟だと思います。もしくはそれに代わる養母や祖父母、施設なら仲間や運営側の人間でしょうか。
兄弟がいなかったり片親だったりする場合はその分機会や刺激の多様性が減りますので、育てる方の負担はその意味でも増えると思います。
こどもは遺伝的に2つの家系から生まれているのであれば、そのどちらかの家系の人間の生まれ変わりですし(ごく稀に例外はあるそうです)、その家系的なテーマを受け継いで生きているからです。
ひとつ例えをあげます。
こどもをふたり以上授かった場合はひとりはパートナーの性質を強く受け継いでいる可能性がありますよね。
自分のこどもでありながら、パートナーの性質を受け継いだ場合、それがパートナーの好ましくないと思われる部分で本人が抑圧していた場合など、自分にとっては全く理解しがたい存在になるでしょうし、パートナーにとっては否定したい存在になるかもしれません。
それが1人なら、どちらの立場であってもそのままでは困難があるでしょうから。
親が愛情を真っ直ぐ、充分に与えるゆとりがあれば、特に受容的でこどもの状態により意識的であるほど困難は減ります。
個人的には、『こどもは本当は「愛」を食べて成長している』と言いたいぐらいです。
お1人でも両親とも揃っている家庭以上にたっぷり愛情を注いでいる人はたくさんいます。家庭環境についてひとり親だから、という話ではなく、子どもに対して「愛をどう表現できているか」という話なので誤解しないで戴けたら嬉しいです。
こどもの幸せを願う親はこどもの幸せがなにかを知っているのか
さて、本当に多くの親は口を揃えて「子どもの為を思って」色々手を尽くしていると思います。
こどもの為、というのは将来の幸せの為ということだと思います。
ただそれはその時点で親が考える幸せというものになると思います。
時には自分自身にとっての明確な幸せの定義があるわけではなく、漠然とした世の中にある幸せの影を追い求めての行動かもしれません。
もしかしたら幸せを願うのではなく、ただ自分の闇を投影するだけの関係性もあるかもしれませんが、そこはわたしにはわかりません・・・
実際将来どうなっていたら自分のこどもは「幸せ」なのか。こどもにとっての幸せは何なのか。
精神的に満たされて経済的に不便がない状態なのか?それとも好きなことさえやれていれば幸せなのか・・・そんなこと首も座らない赤ちゃんを見ていてもわかるものではありません。
こどもの幸せは親の「願い」で極端な言い方をすれば親のわがままです。
こどもの人生の舵はこどもにしかきれないし、親は見守ることはできても本当の意味でその航路(人生)の責任をとることはできないのです。
では親の責任はどこにあるのでしょう。
親の責任とやらないで欲しいこと
それは「こどもが自らの責任で選択する力を養ってあげること」だとわたしは思います。
これはミクロな視点での話です。
選択肢があるとき、こどもが迷っていたらあなたはどうしますか?
安全な道を選んであげますか?
こどもに委ねますか?
わたしが学んだ親がこどもに対してできること。
それは、各選択肢を選んだ場合に結果として起こりうること、そのメリットとデメリットをフラットに話してあげることです。
聞いたうえで選ぶのはこどもに任せます。
こどもの選択について、自分の望ましく思える選択に沿わせようとあれこれ言いたくなりますが意志の確認に留めます。
もしかしたら、子どもが独自の視点で説明にはないメリットを自ら見出すかもしれません。
説明の後できることは、どちらを選んでも「失敗」はないと伝えること。だから恐れなくていい、そう伝えることで子どもは勇気を持てます。
そしてどちらを選んでも、自分は味方で力になると態度で表現することです。口調やことばで伝えてもいいでしょう。声のトーンやボディランゲージの方が受け取りやすい子もいるかもしれません。
結果が思い通りにならなかったとき、寄り添ってあげることも大事です。
こどもは行動した結果痛みを得ても、結果の良し悪しに関わらず自信を得ることができるようになります。
次の選択に意欲的に取り組むこと、勇気を持つことができるのです。
どうか「ほら、親のいうことを聞かないからこうなるんだよ!」と言いたい気持ちが起こってもこらえてください。
目的はどちらが正しいか競うことでも、親の言いなりになる子を育てることでもないはずです。
ましてや子どもの自尊心を傷つけることでもないと思います。
この失敗を支えてあげることで、結果を他人のせいにせず自分で受け入れ更に歩むという、なにより大きな力を育むこともできるのです。
思春期に深まる溝と絆
そして、親が自分の選択を尊重してくれたと感じることで親子の信頼関係が育ちます。
成長して思春期になると、悩みが増えます。
自分もあったと思えるようなこともあれば、時代の変化もあって思っても見ないような悩み事を抱えてくるときがあります。
そんなとき孤独にさせないこと。
繋がりを保っておくことが一線を分けることがあるのは報道の通りです。
こどもは親に余計な心配をさせたくないものです。
また恥ずかしい自分を知られたくないとも思っています。
なにか問題が起きているときには相談しにくい環境が整ってしまっているのです。
逆に誰でもいいけれど誰か真剣に話せる、打ち明けられる環境が整っているこどもがそこまで追い込まれることは少ないのかもしれません。
今できること~既に親子の心のすれ違いがある場合
記事を読んでくださっている方には、既にお子さんと会話がないという方もあるかもしれません。会話のないまま自立して家を出てそのままという家庭の方もあるかもしれません。
でももし取り戻したい繋がりがあるなら、望む関係性の形があるのなら、いま表現してみてはいかがでしょうか。
会話がなくてもあなたのことを思っている
なにか困ったことがあるならいつでも話を聞く用意がある
そんなメッセージを言葉でなくても発信することはできます。
「この人に話しても無駄だ」
そう思ったときこどもは口を開かなくなります。
心当たりがないか、これまでこどもを思っているという建前の影で子どもの意志や人格を否定してこなかったか胸の内に訊ねる必要があります。
気づきが生まれ、変化を望んた時、タイミングが訪れると思います。
些細な、或いは少し大きなトラブルを子どもが起こした時
こどもが大事件を起こした時。
保釈金を払う親。
本人に代わって謝罪する親。
関係ないとばかりに無視する親。
公になったから我々に見えているだけで、自首を勧める親とは反対に隠蔽しようとする親もいるかもしれません。
色々いると思います。
では自分のこどもが園で、公園で、他の子を叩いたりつねったり突飛ばしたり、泣かせたときはどうでしょう?
開口一番「なんでそんなことしたの⁉」と𠮟りつけて代わりに謝る親。
普段従弟たちといるときはそんなことしない、される方が悪いという親。
親同士で上手く交渉して話を終わらせる親。後で子どもに言い聞かせる。
相手の親が絡むと、本当に親というものはこどもの話を聞いてくれなくなるものです。時には園長先生まで出てきて子どもはそっちのけです。
そしてこどもがそっちのけのまま、親同士が争いを始めることもしばしばです。
こういうときもこどもの話を聞いてください。
どちらが正しいかじゃなくて、まず気持ちに寄り添ってください。やった方もやられた方も感情がある生き物で、その感情の扱いが未熟な子たちなのです。
親自身も感情の扱いが未熟な場合があります。
我慢しか教えられてこなければ自分もそう言いたくなるかもしれません。
でも子どものこころに本当に寄り添ったとき、そこに痛みがあったらあなたはただ「我慢しなさい」と言えますか?
子育ては親育て
わたしがこどもを育てていて感じたのは「自分の人生を生き直すチャンスを貰っている」ということです。
こどもの痛みを、悔しさを感じることができるなら、あなた自身もそれを持っているということです。それが胸の中で騒ぐならあなた自身も一緒に癒されてください。
こどもは親を始め自分を育んだ者たちから学んできたやり方でしか表現できません。常に学び続けてトラウマから解放され新しい生き方を見つける人もいれば機会を失ったまま自分を古いやり方に縛り続ける人もいます。
家庭に暗い記憶しかない人が結婚を選んだなら、違う何か、愛のカタチを見つけたのだと思います。それをどうぞ育んで、自分を癒して、より豊かな形でこどもに伝えてください。
それがあなたがあなた自身の人生の責任をとって生きるようになるために、子どもが自分の人生の責任をとって幸せに生きる子に育てるために必要なことです。
この世でただ一人のかけがえのないあなたという人と、この世でただ一人の、別の人格を持って個別に尊厳を持って生まれた小さないのちに見える大きな存在をどちらも尊重して、愛を捻じれなく真っ直ぐ注いでください。
それがマザー・テレサの話した「孤独という貧困」を無くすことにも繋がっていくとわたしは思います。
最もひどい貧困とは、孤独であり、愛されていないという思いなのです
―― マザー・テレサ
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親子の微笑ましいサルの写真はむらさんからお借りしました。
温かな写真をありがとうございます。
今日で連続投稿100回めです。
これで連続投稿を意図してnoteを書くことは終了します。
今回は長い文になってしまいました・・・ものすごく集中していて気が付いたら書かされてる系にもなっていましたし・・・長文お読みくださった方ありがとうございます。