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人生を変えた1冊~その1

その出会いはとある接骨院の待合室でした。
わたしは20代からぎっくり腰持ちで、どうも家系的に腰が弱いのか当時はなかなかの頻度でぎっくり腰になっていました。

そんなわたしの駆け込み寺が教会の向かいにある小さな接骨院だったのです。当時は初めての子が先天性疾患で長く病名もわからない状態でわたしもかなり精神的に参ってしまい、三浦綾子さんが通ったという日本キリスト教会に所属するという教会を探し求め、ちょっと遠い町にあったその教会に求道者としてよく話を聞きに行かせてもらっていました。
牧師夫人がとても可愛らしくて優しくて真っ直ぐだけれど温かで柔らかな方で、先輩ママさんとしてとても多くを学ばせていただきました。
なのでおすすめの接骨院を訊ねて教えてもらったそのお向かいさんに、信頼して通っていました。

実際腕のいい先生で、やった当日はほぼ動けず、翌日になっても両手に杖がないと歩けなかった酷い状態でもスパイラルテープを使用してとりあえず杖1本で歩けるようにしてくれたものです。

そんな接骨院の待合室にその本は置かれていました。
越智啓子さんの「人生の癒し」です。

人生の癒し 夢がかなう「セルフ・ヒーリング」のすすめ
Amazon Services International, Inc.による
詳細はこちら: https://www.amazon.co.jp/dp/B0166OFCY2/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_STP59XQM8NJXV4J9RZ5S

2004年版です。
当時やっぱりスピリチュアルということばも知らなくて、つまりそういうことを求めて教会に通っていたわけでもあるのですが。
話は逸れますが、当時の牧師先生が教会で礼拝時にある説教をされるのですけれど、原稿を用意せずに話をされるのです。それが聖書を通して人間の真実に触れているというか・・・
今から思うと、牧師先生はチャネリングみたいなことをされていたと思います。ちょっと鬱を患っていらっしゃったのですけれど、上の方のチャクラが活性化して繋がりすぎちゃって、足元がバランス悪くなってしまっていた感じです。

クリスマス礼拝は祈りで本当にたくさんの存在たちが集まっていて、素晴らしいエネルギーで感動しました。ここだけの話ですけれどね。
宗教には限界があるとよくわかったので、ご挨拶してからもう一度も行っていません。牧師は転勤族なのでこれからも行くことはないと思います。

さて、接骨院に話は戻しますが、当時スピリチュアルということばも知らなかったわたしですけれど、思いがけず越智啓子さんの本を手に取ることになったわけです。
潜在的にスピリチュアル的な世界を求めて教会に通っていたわたしが知らずに導かれるようにこの本に出合ったというのは興味深いと思います。それもスピリチュアルとは相容れない宗教の世界に生きている方のことばに従って行動したことで出会ったのです。

不思議な縁と言ってしまえばそれまでですが、人間が決めた枠とか区別、領域とかはつまらない取るに足らないものだなと改めて思います。人はラベルで人を分類して対処しますが、本当にただ人間は人間だと思います。

なんて考え方は当時はなく、なかなか不器用にわたしも生きておりました。今でも不器用なのは変わりません。
越智啓子さんのテンションは著書にも表れていて、わたしはなかなかにショックを受けました。で凄く興味深く読んでいたら接骨院の先生が持ち帰って読むことを許可してくださったのです。

それでわたしはこの本を読むことができました。
そんな前のことですから、はっきりと内容を覚えていません。でも目の前に突き付けられたように感じたことばがあります。

読んだ時の衝撃が上手く伝わる表現ができないのですが・・・

AとBがある。それがチョコレートとアイスクリームだとする。
どちらにするか迷ったら、食べたい方を選べばいい。
昨日まではチョコレート党を宣言したのだからここは当然チョコを選ばなければ、とか思わなくていい。

そんな感じのユーモラスな例えを用いて選択について説いてくださっていたように記憶しています。

食べ物だったら当たり前だと思えるから、この例えが絶妙なんだと思います。それだけ人は過去に縛られています。
特に学生時代とかは「キャラ」もあったので余計です。

「らしさ」「信念」「イメージ」そんなものが「~べき」を迫ってきて本当に苦しく生きてきてたんだなぁって今だからよくわかります。
わたしの説明で伝わるでしょうか。

わたしは別に越智啓子さんの信奉者ではないですが、深刻に生きている方ほど啓子さんの書籍を読まれるといいんじゃないのかなぁって思います。
後からじわじわ効いてくるんです。
そのとき「できないよ」とか「ほんとに?(そうかもしれないと思う自分もいるけれど、自分じゃ絶対そんなこと人には言えない)」とか思ったことがあっても、それから人生の各シーンでそのことを思い出させられる出来事が起きるのです。
その度に小テストを受けている感じになります。
いま自分が現実の出来事をどう扱っているか、どう受け取ってどう対処しているかということを。

で、だんだん「ほんとうだよなぁ」って思うようになって気が付けば身軽になってるんです。
そこが面白くてちょっとひとりニヤニヤしてしまう。

時間ていうのは本当にちょっとまやかしみたいなところがあって連続しているというのはある意味誤解なんだと、実感しているのは最近になってから。
人間として生きて表現するには、人生が川に例えられるように時間が連続したものとしての表現がぴったりすぎてそっちの現実の方が強く感じるからわかりにくくなってしまうのだけれど。

いま啓子さんの本から生まれたことばの欠片に初めてであった人も、もう一度ちゃんと出会い直してほしい。
きっとじわじわ効いてくるから。

そしてまやかしの過去から自由になって、次に未来からも自由になるから。

今日も拙い文にお付き合いいただいてありがとうございます。
この数日疲れと忙しさと不規則な生活で皆さまのところに訪問できていませんが、時間を作って必ず伺います。
それが楽しみですから。

感謝です!

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