アワノウタ
わたしがアワノウタとであったのは2017年頃のことかと思います。
ネットでクリスタルボウルを注文したのですが、そのクリスタルボウルと一緒に写真のカードが添えられていました。
なんだろう?と調べて伊邪那岐(伊弉諾)と伊邪那美(伊弉冉)がクニツクリをしたときに歌われた歌だということを知りました。
当時見たサイトがこれだと自信を持って言えるものが見つけられなかったのですが、探していると当時は見かけなかった検索ワードがちらほらあって驚きながら記事を書いています。
それは「危険」とか「歌ってはいけない」というもの。
わたしはこれらについてはたった今知ったところで、そう発言している方々のことをよく知りません。
同時にアワノウタを歌うように推奨している方々も一部は知っていますがその方のすべてを知っているわけではないしアワノウタそのものも深く研究した身ではありません。
だからわたしはわたしの体験に基づいたものだけ書きます。
そして更にわたしの信念を書かせてもらうと「本人の意図(及び葛藤や恐れを含めた内側からでるもの)以上に本人の人生を支配できるものはない」ということです。
* * *
前置きするとわたしは古事記は学生時代乱読していた時期に読んだきりで、信奉者でもなんでもありません。
でもわたし自身も美豆良(角髪・みずら)を結った自分を感じていて、アカシックリーダー仲間にもその姿が視えると言われたぐらい古代の日本にはなじむ感覚を覚えてはいます。ま、理屈抜きで古代の空気が好きってことです。
で2017年当時わたしが調べたサイトでは「ことばの乱れを正すことが必要だ」「いまでもこの歌を歌うと乱れを整えるパワーがある」というような感じのことが書かれていたように記憶しています。
言霊といいますけれど、言葉が乱れると気が乱れて世が乱れるという理屈ですね。
これになるほどと感じ入りまして。
わたしは音に敏感なものですから・・・凄く大切なことのように感じられたのです。
経験から言っても子どもの頃祖母と母との摩擦を全身で受けて板挟みみたいになって、かつ両者の感情の激しい荒れを丸ごと自分のものにしてしまっていたわたしは、それを吐き出さずにはいられなくて、その手段として知るうる限り汚い言葉を使いました。廊下から脱衣所の床、ノートにも連呼するようにたくさんたくさん同じ言葉を書き連ねてありました。
書いた記憶は全くありません。
わたし自身の感情じゃなかったからか辛すぎたからかわかりません。
でもそういうことば遣いは耳にした相手にやっぱりトゲトゲした連鎖を生み出すのです。だから実家はよく怒鳴り声が響いていたのかもしれません。
だから自分のこどもを育てるときはとてもことばを大切にするように伝えました。保育園で覚えてきても、それはそういうことばを使って表現したくなるようなこころだから、つまりこころが怪我をして痛みでトゲトゲしている状態だからそっちのケアが先だと思いました。
とはいえ、わたしもトゲトゲを抱えて大人になった人間ですから当時はうまくいくことばかりではありませんでしたが。
そう、わたしが先に穏やかに、やわやわな自分にならないとうまくいかないのです。
上手くいかないのは乱れがあるサイン。
知らずにイライラをため込んだりしている、自分にも世界にも優しくない状態。
だからそんな風にふっと気づいたときにはアワノウタを唱えるようにしたのです。
氣の乱れを整えると意図して。集中して。
そうすると空気が「パキッ」とした感じになるというのでしょうか、澄んだ感じというか整ったというのか・・・自分の周りが神社に近い空気になるとう表現が近いかもしれません。
ありがたいきもちになりました。
毎日唱えたりとかしてないのです。
なんかおかしい、って空気が重く感じたりしたときだけ。
そしてそんなこともあまり起こらなくなり、すっかり忘れていた頃にこのメッセージカードをみつけたのでした。
ありがたくて一度唱えました。
発音も発声も呼吸も気を付けて。
意図をしっかり持って。今回は感謝でしたけれど。
コロナの副反応に関するデマもそうですが、悪い噂ってすぐ拡散します。恐れの虜になっている時代だから特にそうなりがちなんだと思います。
皆さん!自分が怖れを持っているならそれも現実化するんですよ。どんなに夢描いてポジティブな願望を口にしていても。
怖れの反対は愛です。
わたしは宗教者ではないですが、ひかりとかいう表現よりもエネルギー的に的確なのでこのことばを選んで使います。(わたしの中の定義では、ですけれど)。このことばに不信感や嫌悪感を持つ人がいることは理解していますが続けます。
今持っている恐れが愛に置き換わったらどんなことが起きるかイメージしてみてください。
今日もありがとうございました。