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【1人で死ね論について思うこと】

「誰かを殺して死刑になりたかった」
「○○を殺して、自分も死にたかった」

直近でも東京・渋谷区で通り魔事件が発生したが、
いわゆる無差別巻き込み型の犯罪で、
犯人が語る動機は上のようなものが多い。

そして、こうした事件が起きる度にTwitterなどのSNSで流れるのが、
「死ぬなら1人で死ね」という声だ。
そしてそれに対して
「安易な自己責任論で、個人に責任を負わせるべきではない」
という反対意見が沸き起こり、お互いの立場からの
無意味な罵り合い、インターネットバトルが起きている。

この議論に対して私が思ったことしては、
「こんな議論はゴミだし、無意味。
インターネットのフィルターバブルに飲み込まれるな。」
というものだ。

まず不本意ながらこの議論に乗るなら、
「犠牲者は少ない方がいいし、他人を巻き込むことは許されない」
という考えになる。つまり私は「1人で死ね」という立場に
身を置くことになるのだろう。

しかし、この単純な二項対立の議論では何も解決しない。
それでは、今後もこんなことは起こり続けるだろう。

我々のような第三者はなぜそれが起こってしまったのか?
今後同じようなことが起こりかけているときに、
どうすれば事件を防ぐことが出来るのか?という議論をするべきだ。
それが、後の世代に責任を持つ大人のやることだと思う。

しかしこの議論に関わる人はそこまで考えない。
ネットで流れてきた議論に条件反射的に反応しているだけだ。
こんな水掛け論に乗ってしまった時点で間違いである。

またこれと同じような感想を持つ事象が
最近もう1件あった。

それは日本の学生とウクライナからの避難民が交流会が
ニュースで流れたことにより起きた議論だ。
内容としては以下のようになる。

日本の学生が「武器をウクライナに供給し続けると
戦争がいつまでも終わらないのでは?」という質問をし、
避難民が「武器の供給は必要だ、それがないと沢山の市民
が殺されてしまう」と返し、学生が答えに詰まってしまう。
という場面が、TVニュースで流れたのだ。

この学生の発言が、「戦争をすること自体が完全悪で、
止めれば解決するという戦後教育の悪いところが出ている」
と批判されていた。

その批判自体は真っ当だし、この機会に
平和教育そのものが、何か変わればいいなと
個人的には、思っている。

しかしネットの意見を眺めていると割と多くの人が、
この日本の学生に対して「平和ボケの象徴だ」
「思考停止になっている」だの、
個人的な批判に終始しているようだ。

本来、あるべき姿としては「なぜそういう風に
この高校生は思ってしまったのか?教育に改善すべきところはないのか?」
と根本的な要因について議論をするべきだろう。
単純な個人批判は上と同じく、大人の考え・発言ではないように思う。

私は事件に条件反射するのではなく、
根本的な要因と対策を議論する大人になりたいと改めて思った。
また「批判するだけの人を批判するだけの人」に
ならぬように、自省・行動していきたい。

余談だが、私が影響を受けた
書籍やドキュメンタリー番組を紹介したい。
手に取っていただけると嬉しい。

監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影
 Netflix・ドキュメンタリー番組

やばいデジタル “現実”が飲み込まれる日
 講談社現代新書


令和元年のテロリズム
 新潮社


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