在野の情熱、アカデミアの存在意義
父が定年退職を迎え、セカンドキャリアとして研究の道に興味があるかなと思い、薦めたのが今回紹介する荒木優太編著『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(明石書店、2019年)である。
https://www.akashi.co.jp/book/b472224.html
本書の対象になっているのは、現役で活躍中の15人の在野研究者たちである。本書では、在野研究を「大学に所属をもたない学問研究」と定義している。構成は、日々の労働のなかでなんとかやりくりしながら学術論文を発表している書き手(第一部)、広い意味での研究から非学問に見えるものまで、なだらかなグラデーションのなかで知の世界を自由に謳歌し、我が道を行く書き手(第二部)、知のインフラに注目し様々な人々との協働を目指す人々(第三部)から成る。
本書のコンセプトは、編著者の荒木による次の文章に端的に示されている。
在野の研究生活に一般解はない。個々人の生活はそれぞれ異なる条件を与えられ、使えるリソースもてんでばらばらだ。偶然性に左右される。その上でなお在野での学問を志すのならば、各人、使える技法を自分用にチューンナップせなばならない。
ここにあるのはいわばチューンのための材料だ。道なき道の道標だ。だから指南書ではなく実例集を編んだつもりである。偏ってない一つの指南よりも偏ったたくさんの実例の方が、多くのビギナーを鼓舞し具体的な実践へ導くに違いない、というのが編者の編集方針である。(6-7頁)
彼ら/彼女らの研究に向き合う姿勢は様々だ。最初から社会人になることしか考えていなくて、退屈な時間を使って研究するようになった人もいれば、職業研究者としての力も資質も欠いていると感じて研究の道を諦めたものの、社会人としての経験から新しい発見をして研究を行っている人もいる。彼ら/彼女らの業績を見ると、アカデミアを離れてはいても、唯一無二の存在として、日本の学術の発展に貢献していることが分かる。また、在野研究は価値観と方法の両方を自由に設定でき、大学では行いにくい新しい研究に向いているとも指摘される。
そもそも研究をする必要がない在野の人々があえて研究に身を投じる際の熱量は、元々アカデミアにいる人々の比ではない。私自身は、彼らの言葉を読みながら、むしろ研究機関に所属する者の自覚や責任を問い質されているような気持ちだった。共著者の一人である山本哲士にいたっては、「大学なんてね、制度権力を偽装しているだけでなんの学問的かつ知的な実質も基準もない」(189頁)、「大学は賃労働教官が、自分の都合で狭い学問を専門と称して、学会に業績通用することだけして、無知な学生を相手に生活しているだけの場所」(190頁)と手厳しい。
山本の言は、アカデミアと在野の境界が曖昧になっていることの言い換えなのかもしれない。同様のことを示唆する坂卷しとねの次の言葉に、アカデミアの存在意義とは何かを考えさせられた。
アカデミアがすべてではないし、学びの全体ではない。それどころか僕たちはまだ世界の全貌を知らない。一生知ることはないだろう。だから不完全な「わたしたち」が未知のものと出会い続ける営みはどのような身分であれ正当化される。なにかおもしろいことが生まれる可能性はアカデミアのなかにもあるだろうけど、在野や世間にだって同じぐらいある。その区別も今となってはどうでもいい。僕はどっちにも存在している。学びはどこでもできる。何度でも始めなおせばいい。僕は楽しいからそうする。(231頁)