『若おかみは小学生!』映画評・現実を受け入れて生きる
◯前書き
こんにちは。ササクマと申します。誰かに仕事として依頼されたわけでもないのに、恐れ多いながらも好き勝手に映画評を書く者です。頭おかしい。この自分自身のキャッチコピー、定着しませんね。
noteへは2ヶ月ぶりの投稿となります。お久しぶりです。遅くなってすみません。もう皆さん、わたしのこと忘れちゃったかな? ですが、わたしは皆さんのことを片時とも忘れたことはありません。なんてったってフォロワー2人ですからね。この文章も無心で書いています。太字は笑い所です。
さて、コロナウイルスが蔓延する昨今、皆さんは劇場で映画を観れていますでしょうか? 2020年7月現在、映画業界は新作を上映できない状況にあるため、映画館サイドは主に過去の人気作品を取り扱っています。
「一生に一度は、映画館でジブリを。」なんてキャッチコピーを提げ、『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』など、錚々たる作品がラインナップに。この夢のような光景を目の当たりにして、興奮しない映画好きがおりますでしょうか。わたしもジブリの映画評が書きたい!
というわけで、今回の取り上げる映画は『若おかみは小学生!』です。
…………何か言いたいことあればコメントください。
改めまして、わたしが映画評を書く目的を説明しますと、それは感動の正体を探るためです。この映画を観た感動を、わたしは言葉にしたい。ただの自己満足ですが、作品に対する知的欲求を満たしたいだけならば、わたしは監督を拷問します。その方が手っ取り早いでしょ? おかしなこと言ってます?
断じて、金もらってんのにクソみたいな記事を書く映画ライターを皆殺しにしたいわけじゃありません。本当です。信じてください。わたしは自分が読みたいものを書きたいだけです。わたしが読みたい本作の映画評が無いのなら、自分で書くしかありません。
とゆーわけで、本題に入りましょう。
◯作品紹介
物語あらすじ。(劇場版ノベライズ:講談社文庫より引用)
両親を事故で亡くし、おばあちゃんの温泉旅館「春の屋」で暮らすことになった小学校6年生のおっこ(関織子)。旅館に住み着くユーレイ少年・ウリ坊や、7歳の少女のユーレイ・美陽、魔物の鈴鬼の力を借りて、若おかみ修業を頑張る日々。でも時々、両親が生きているような気がして……。累計300万部を誇る大人気シリーズの劇場版オリジナルストーリー。
原作は令丈ヒロ子先生による児童文学。講談社の青い鳥文庫から全20巻が刊行されており、2003年から2013年の10年間で完結している。そして5年の時を経て、2018年に劇場版が公開されることに。
また原作や劇場版とは別に、漫画やTVアニメでもメディアミックス展開されていることもあり、関係者の間では十分な興行収入を期待できた。だが、その予想は大きく下回り、初動での週末興行収入は3489万円。映画業界の常識として、その後の興行収入が初動を上回るケースは少ない。さらにはメイン館の上映を打ち切られたこともあり、制作費の回収は絶望的かと思われた。
しかし、著名人による高評価がSNSで拡散され、口コミで話題になったことで再び息を吹き返す。その様子の詳細については、以下に貼り付けたリンクの記事を参照してほしい。
おかげさまで、最終的な興行収入は3億円を超えた。とはいえ、通常のアニメ映画の制作費は1億円〜3億円ほどが基準となるため、結果的に黒字だとしても厳しいだろう。
興行的には正直、芳しくない成績で終わったかもしれないが、本作は高い社会的評価を得ている。第20回富川国際アニメーション映画祭では観客賞と優秀賞のW受賞。第42回日本アカデミー賞では優秀アニメーション作品賞などなど、数々の賞を総なめにしてきた。
わたし自身、本作を高く評価している。てか、わざわざ酷評したくて映画評を書くわけがない。どんな暇人だそいつ。
本作での感動に至るまでの道筋を辿りたいため、次節ではスタッフ紹介を行う。
◯スタッフ
■監督:高坂希太郎
『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『風立ちぬ』など、数々のジブリ作品の作画監督を務めた経歴を持つ。そして2003年の『茄子 アンダルシアの夏』で監督デビューし、初監督作品ながら名高い評価を得た。だが、続編の『茄子 スーツケースの渡り鳥』が2007年にOVAで発売されたきり、監督業としては本作の公開まで11年ぶりとなる。
2014年、東京アニメアワードフェスティバルでアニメーター賞を受賞。2020年現在、DLE所属。
■脚本:吉田玲子
アニメ業界で頂点に君臨しているであろう、泣く子も黙る人気有名脚本家。細田守監督の『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』にて脚本家としての頭角を現し、スタジオジブリでも『猫の恩返し』を担当した。
そしてTVアニメ『けいおん!』が契機となり、その後も数々の京都アニメーション作品を担当することに。さらには『ガールズ&パンツァー』も大ヒットし、他の追随を許さない人気脚本家へと登りつめた。
2014年、2017年にて、東京アニメアワードアニメ オブ ザ イヤー部門の原作・脚本賞の受賞歴を持つ。
◯制作会社
■DLE:齋藤雅弘プロデューサー
DLEとは、端的に書くとコンテンツ製作企業。主にキャラクターを活用したセールスプロモーション事業や、アニメなどの映像プロデュース事業を行っている。本作の企画発案者。
主な作品は『秘密結社鷹の爪』などのショートアニメ。
■マッドハウス:富田智紀プロデューサー
『サマーウォーズ』『パプリカ』『宇宙よりも遠い場所』『MONSTER』などなど、数々の名作を生み出したアニメ制作会社。また、高坂監督作品の『茄子 アンダルシアの夏』、『茄子 スーツケースの渡り鳥』の制作も行っている。
◯制作に至った経緯
1.『風立ちぬ』の仕事が終わった高坂は長めの休暇を満喫。
2.そこへTV版の監督である谷から、本作のキャラデザを依頼される。
3.彼とは自転車仲間であり、原作を読んで気に入った高坂は企画に協力する。
4.しかし、一度その企画が頓挫しかけ、途中で止まってしまう。
5.ただキャラデザは素晴らしく、そのイメージボードを講談社が気に入った。↓
6.DLEの斎藤が劇場版として企画を練り直す。(2015年1月)
7.そのキャラデザありきの企画なので、キャラを動かすにはデザインした当人が適任だろうという考えのもと、高坂に監督を依頼。
8.監督業の期間が空いていた高坂だったが、ちょうど仕事の合間もあり、久しぶりに監督やりたいという理由で了承。
9.制作は請け負うが自社で作れないDLEは、かねてより高坂監督作品を制作していたマッドハウスへ話を持ちかける。
10.激しいアクションものが得意なマッドハウスだったが、路線変更して子ども向けアニメを作りたかったタイミングと偶然にも重なり、企画書を読んで参加を決定することに。
11.その後、DLEは劇場版を盛り上げたい想いで、TV版の企画も立ち上げた。
12.制作は請け負うが社内で作れないので、またもマッドハウスへ泣きつく。
13.ロケハンして設定を固め、劇場版脚本の決定稿が完成。2016年4月から作画開始。
◯登場人物紹介
■おっこ(関織子)
主人公。12歳の少女。交通事故で両親を亡くし、旅館を経営する祖母の峰子に引き取られた。そして後述するウリ坊からの懇願により、成り行きで若おかみとして働くことになる。
明るく元気な女の子。誰にでも積極的に話しかけるため、どんな相手とでも仲良くなれる。頑固で意地っ張りで、喧嘩っ早い怒りん坊に見えて、あまり自分を出そうとはしない。誰かのために一生懸命になれる性格。
声優は小林星蘭。2004年生まれの女優タレント。5歳時に子役としてデビュー。数々のドラマやCMに出演している。原作の愛読者であり、アフレコ当時は主人公と同じ12歳だった。
■ウリ坊(立売誠)
春の屋旅館に住みつく、見た目12歳少年の幽霊。生きていたなら70歳であり、幼馴染の峰子が心残りで成仏できない。おっこを交通事故から救った命の恩人であり、その後も彼女を支え続ける兄のような存在へ。
基本的にデリカシーは無いが、おっこの絶対的な味方。彼女が困った時は親身にアドバイスし、暴走しかけた時も冷静にストップをかける。
声優は松田颯水。主な出演作は『アイドルマスター シンデレラガールズ』の星輝子。余談だが、アフレコ時の幽霊の声は先に録音しておき、それをヘッドホンで聞きながら小林星蘭さんが演じたとのこと。
■秋野美陽
見た目7歳の幼女だが、生きていれば20歳ほどになる幽霊。後述する真月の姉だが、病弱で早くに亡くなったため、妹は美陽のことをよく知らない。自分の姿が見えるおっこと、ウリ坊と一緒にいるのが楽しいため、勝手に春の屋旅館へ住みつく。
時が経つにつれ、おっこの姉的な存在へ。ファッションや恋愛など、おっこにとって女子的な話題での良き理解者となる。
劇場版の声優は、遠藤璃菜。子役としてテレビドラマに多数出演。また声優としても活躍しており、『甘々と稲妻』では犬塚つむぎ役を演じた。
■鈴鬼
春の屋旅館に住みつく魔物。幽霊ではなく、小鬼の姿をしている。トラブルメーカーであり、旅館に一癖も二癖もある客を呼び込む能力を持つ。イタズラ好きで太々しい性格だが、なんだかんだ憎めない末っ子のような存在。
原作小説では活躍の機会があるものの、尺が短い劇場版では扱いが難しい。おっこのドラマから遠いことを逆手に取り、ファンタジー世界の狂言回しとして物語を進行させる。
声優は小桜エツ子。『ケロロ軍曹』ではタママ二等兵。『妖怪ウォッチ』ではジバニャンなど、特徴的な可愛らしい声が人外キャラとマッチする。
■秋野真月(まつき)
花の湯温泉で人気のある、秋好旅館の若おかみ。おっこのクラスメイトであり、同じ若おかみとして敵対心を見せる。だが、おっこが本気で仕事に取り組む姿勢を見て、次第に仲間意識が芽生えていく。
いつもピンクのフリルがついたドレスを着ているため、クラスの間では影で「ピンフリ」と呼ばれている。見た目は派手ながら努力家で、しっかり者。ツンデレ。照れると右の耳たぶを触る癖がある。劇場版にて格言キャラが追加された。まったく違和感が無い。
声優は水樹奈々。もはや説明不要の人気声優。数々のアニメ作品で主演を演じた上、とてつもない歌唱力で紅白歌合戦にも出場した。
■神田あかね
おっこと同い年の美少年。体調が悪くなり困っていたところ、おっこに誘われ春の屋で泊まることに。母親を亡くして傷心中であり、何事に対しても頑張る気力を失った。
声優は小松未可子。これまた代表作をあげればキリが無いほどの人気声優。正統派美少女から、少年役も演じ分けることができる実力派。
■グローリー水領
ミステリアスな美女。仕事とプライベート、どちらも行き詰まって悩んでいたところ、健気に頑張るおっこの姿を見て元気を取り戻す。
劇場版の声優はホラン千秋。女優、タレント、キャスターとして活躍。特撮にてアフレコの経験も有り。
■木瀬文太
劇場版のオリジナルキャラクター。ネタバレになるため、ここでは深く紹介しない。
声優は山寺宏一。説明不要ってか、わたしが説明文を書くのが面倒なだけ。「七色の声を持つ男」と呼ばれるほど、幅広い演技力を持つ有名声優。
◯分析
映画を分析する上で重要な要素の一つとして、「作品のフィクショナリティを見破る」がある。
「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」
これは日本初のファンタジー小説『コロボックル物語』の作者、佐藤さとる先生の言葉だ。どれだけファンタジーな童話であっても、それらの世界が破綻しないのはリアリティあってこそ。たった1%の不思議を成立させるためには、残り99%の現実で物語を構築する必要がある。
で、本作における不思議要素は、考えるまでもなく幽霊の存在だ。ウリ坊と美陽ちゃんがいたからこそ、おっこは両親を失った悲しみを癒すことができた。
ウリ坊と美陽ちゃんは、おっこにとっての救いだ。だが物語が進むにつれ、おっこは幽霊の存在を認識できなくなる。再び大事な人を失う中で、どうして彼女は現実の理不尽を受け止めることができたのか?
※ここから盛大にネタバレ
わたしは本作が好きだ。映画評を書く程度には好きだ。おっこのことも可愛いと思っている。だが同時に、わたしは彼女が不気味に見えた。
物語終盤、両親を交通事故で殺した男が客として旅館に来る。普通なら、いや何が普通かも判断できないが、わたしなら復讐に燃えるだろう。絶対に許せない。
それなのに、おっこは許したのだ。こんなことありえる? 小学生が至れる境地じゃない。加害者の男は許されてもいいのか? あんなに健気で可愛らしい、おっこのことが急に人間ではない異物に感じた。
なぜ、おっこは加害者を許せたのか? その謎を解明するため、物語序盤から順番に紐解いていく。
1.プロローグ
■神楽
物語は最初、原作には無い伝統的な神楽のシーンから始まる。花の湯温泉に訪れていた主人公の一家は、和気藹々と梅の香神社の祭りを楽しんでいた。
神楽とは日本の神道の神事において、神に奉納するため奏される歌舞のこと。五穀豊穣への祈りや、人々の幸せを願い神様に奉納する。
本作の神楽はオリジナルの楽曲と振り付けであり、花の湯温泉が成り立った由来に基づく。自分の娘を食い殺した狼に復讐するため、父親の狩人が仇を探しに山奥へと入り込んだ。そこには温泉で傷を癒す狼の姿があり、それを見た狩人の心も不思議と落ち着いた、という逸話の設定がある。
元々、動物が入っていた温泉を人間が見つけ、温泉宿として発展させた伝承は確かに存在するらしい。原作者の令丈ヒロ子が、あとがきにて文献を紹介していた。そういった事実の裏付けがあるからこそ、「花の湯温泉のお湯は誰も拒まない。すべてを受け入れて、癒してくれる」という言葉が劇場版で追加され、神楽には死者の魂を慰める祈りが込められる。
■交通事故
東京へと帰る途中の高速道路で、主人公一家は大型トラックと衝突した。あまりにも凄惨な出来事のため、あえて原作では事故シーンを表現しなかったが、劇場版では恐ろしくリアルな描写で映し出す。
劇場版として、もう少し上の年代や大人も見られる作品をと意識した結果、この事故シーンを外すことはできなかった。また、90分の枠で主人公のドラマを描くためには、おっこが両親の死と対峙する必要があったとのこと。
■オープニング
ひとりで花の湯温泉へと向かう主人公。出かける前の玄関、誰もいない家に「行ってきます」と告げる。そして電車の中では他の家族を真顔で見つめ、バスの中では爪先立ちで座っていた。
まだ、おっこが両親の死を理解できず、現実を受け入れていない様子を表す。自分を承認してくれる両親がおらず、自己が生きている感覚が希薄になっているため、心ここに在らずの浮遊霊状態となっている。トカゲやクモなど他の生物に対しても、それらから生きているリアリティを感じないため、異質な他者として極端に恐れた。
■ウリ坊
普通は幽霊の方が虫より怖くて、何倍も驚くところ、おっこは自然と受け入れている。原作によると以前は幽霊も苦手だったが、事故で恐ろしい目に遭ってからは平気になったとのこと。おっこにとっては何を考えているか分からない虫よりも、意思疎通できる幽霊の方がリアリティを感じるらしい。
てか幽霊以前に、ウリ坊は彼女が作り出したイマジナリーフレンドの説もある。この点は大きく議論が分かれるだろうが、どちらにせよウリ坊の存在は、環境が変わって心細いおっこの救いとして機能した。
話を本筋に戻すと、ウリ坊はおっこを若おかみに推した張本人である。他人が期待していることを、あたかも自分も欲していると勘違いするのは危ういが、わたしは彼女が元から旅館業に興味があったのではないかと思う。
おっこは東京生まれの東京育ちだ。別に田舎から飛び出して、歌手になりたい夢を持つわけじゃない。元から旅館のことは大好きだったし、生前の両親も旅館のことを気にかけていた。だが、おっこは決して自分を前面に押し出す性格ではない。むしろ、この時点では自分が無く、意志も持てないのでウリ坊が代弁者になったのではないか。知らんけど。
2.現在
■若おかみ修行
旅館と言えば、非日常を楽しむものだ。同じく旅館の仲居を主人公とした作品には、『千と千尋の神隠し』や『花咲くいろは』がある。そのどちらも不思議な旅館の雰囲気に浮き足立つが、手痛い洗礼を受けて現実に引き戻されてしまう。
本作も例に洩れず、おっこは仕事の厳しさを知る。鈍臭い彼女は失敗ばかりで、いかに身内だろうと祖母に叱られてばかり。上記2作と比べれば格段に優しい方だが、この厳しい指導シーンは重要な意味を持つ。なぜなら、この厳しさが浮遊霊であるおっこを、現実に繋ぎ止めているからだ。その根拠を次で述べる。
■真月
学校の教室。転校初日からクラスに溶け込むおっこであったが、秋好旅館の跡取り娘である真月が嫌味を言いに近づいてくる。第一印象の真月は典型的な高飛車お嬢様であり、陰では「ピンふり」と呼ばれていたことから、クラスでも浮いた存在だった。
ここで本作のポスターを見てほしい。おっこ、ウリ坊、美陽、真月。4人とも物理的、精神的、もしくは社会的に浮いている存在だ。この共通点により、本作は彼女たちの物語であることを示している。特に真月の浮き具合がハンパない。一人だけ世界観が違う。どんなアニメかイメージできず、ちょっと引いてしまった初見の観客も多いのではないか? わたしのことだ。
で、真月は浮いていながら、確固たる自信を持っている。おっこのような浮遊霊と化していない。その差は仕事と向き合う姿勢、能力、心得である。おっこも一生懸命に努力しているが、まだ今は仕事を覚える段階だ。
対して真月は旅館を盛り上げる施策を実行し、小学生でありながら現場監督として指揮をとる。従業員からも慕われているため、いかに学校で浮いていようと、家に戻れば自分が自分である基盤を既に築き上げているのだ。仕事を通して地に足がついている。
■あかね
母を亡くしたあかねの姿は、おっこにとって今の自分を映す鏡のような存在だ。彼は他人から同情される建前に嫌気が差し、何をするにも無気力で不信感を表す。そしてまだ父親がいたからこそ、無理難題の我儘を言って甘えようとする。
確かに気の毒ではあるが、おっこには両親がいない。彼女の不幸さと比べたら、あかねは父親が健在なだけ幸せだと、彼に対してイライラを募らせた観客も多いだろう。わたしも最初に見たときはビンタしたくなった。こちとら両親が死んどるんやぞ。
しかし、あかねの反応は正常だと言える。逆に、両親を失って元気に仕事する、おっこの方が異常だ。あかねは母の死を受け止めているからこそ、悲しみに打ちひしがれている。対して、おっこは両親の死を受け止めておらず、まだ本当は生きているんじゃないかと思う。
で、おっこが頑張る理由は自分のためではなく、みんなを心配させないためだ。頑張らなくていいのに、頑張っている。本当は一緒に泣いてもいいくらいだが、痛い所を突かれた彼女は激怒した。おっこが幽霊を認識していることも合わさり、互いに死の捉え方が異なるので分かり合えない。
だが、おっこは誰かのために頑張れる性格である。自分を出すことが必ずしも良いことだとは限らない。また、あかねの姿が自分と重なっていることもあり、見ていられなくなったおっこは彼を元気付けようと奔走する。あかねも建前ではない彼女の献身を受け、晴れ晴れとした表情で旅館を後にした。
3.未来
■グローリー
何度でも言うが、おっこは自分のためだけではなく、誰かのために頑張れる女の子だ。占い師として人を励ますことが仕事のグローリーは、おっこから励まされることで元気を出す。仕事と恋愛で悩む彼女の姿は、共通点があるおっこにも起こり得る未来だ。
露天風呂のシーンで両親の話になり、おっこは言い淀んでしまう。前なら両親がいないことを普通にカミングアウトできたはずだが、返事もままならずに俯く。この様子は時の流れと共に、おっこが両親の死を徐々に受け入れざるをえない過程だった。
気晴らしに買い物へ行く途中の高速道路。トラウマを引き起こしたおっこはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する。このシーンはSNSで大いに物議が醸されたらしいが、わたしとしてはあまり触れない。それよりも、おっこが握っている人形に注目する。いくら両親の死を理解し始めたとはいえ、到底受け入れ難い現実の中にいるには、ウリ坊、美陽、鈴鬼の存在はおっこにとって救いなのだ。
症状が治まった後、場面を明るくするために「ジンカンバンジージャンプ」の楽曲が流れる。この曲名の意味については、公式ツイッターで説明されていた。
人間万事塞翁が馬の意味は、人の運命は予測できず、一時のそれに一喜一憂しても仕方がないこと。また、本作も少女の通過儀礼が大きな要素となっている。
で、買い物から帰った後、おっこはグローリーと別れるのが寂しくなった。そして楽しい思い出と反比例するように、幽霊の姿を視認しづらくなってしまう。
■喧嘩
梅の香神社の祭りの神楽で舞手に選ばれたおっこ。この頃から自分を出せるようになっており、ウリ坊が本音を代弁せずとも舞うことを決めた。仕事にも慣れてきており、おかげで旅館も評判で客足も増える一方だ。生活が充実してきたことで、おっこの心境にも変化が訪れる。
ウリ坊と美陽の姿が見えないことに戸惑い、舞の練習に身が入らない。それを相方の真月に指摘された上、旅館を悪く言われたことで大喧嘩が勃発する。
転校初日のおっこであったなら、どれだけ嫌味を言われようと激怒はしなかっただろう。だが、本来の自分を取り戻しかけている彼女からすれば、悪口を聞き逃せずに言い返す。後半からただの罵り合いになってはいたが、この喧嘩は真月にとっても良い刺激となった。
真月は陰で「ピンふり」と呼ばれており、それを真正面から言った存在はおっこだけである。で、自分を曲げることが嫌いな真月には友達がおらず、性格的に信用できる人としか仲良くなれないだろう。だからこそ、彼女は正直者のおっこが本当に旅館を継ぐ覚悟があるのか試した。
4.過去
■木瀬
真月との喧嘩後、旅館へ戻ると小さな男の子がトカゲに向けて石を投げる。この頃のおっこは生に対するリアリティを既に回復しており、他の生物を可哀想と思えるくらいには心が満たされていた。
で、その男の子はお客さんであり、ほどなくして木瀬一家の3人が到着。家族が仲睦まじく団欒している姿は、生前の両親と過去の自分を想起させる。だからこそ、おっこは木瀬一家に楽しく過ごしてほしいと思い、意地を捨ててまで真月の手を借りた。
真月も、自分よりお客様のことを優先するおっこを見て、本当に旅館を継ぐ覚悟があると察する。そして一緒に花の湯温泉を盛り上げる仲間として、おっこに惜しみない手助けをした。
■葛藤
木瀬一家の父親、文太がおっこの両親を死なせた人物だと判明する。まだ両親は生きていると感じるおっこであったが、目の前に加害者がいるのであれば話は別だ。怒り、悲しみ、憎しみ。いろんな感情が渦巻く殺意となって降りかかり、否応にもなく両親は死んだのだと現実を突きつけられる。
しかし、おっこは現実を受け入れられない。そして同時に、自分が本当に望んでいたことに気づく。若おかみとか、旅館の手伝いだとか、そんなことどうでもいい。すべてを投げ出して、ただ家族と一緒にいたい。パニックに陥ったおっこは部屋を飛び出すが、不条理な現実世界にウリ坊と美陽はおらず、仕事も放棄してしまえば彼女は再び浮遊霊となってしまう。
両親に置いて行かれたおっこは、自分は一人ぼっちだと泣き出す。この世に一人でいることが心細くて、ウリ坊と美陽を呼んでも助けに来てくれない。そこへ現れたのがグローリーだった。
かつてのお客様であり、年の離れた友人でもあるグローリーは、おっこの話を親身に聞く。幽霊のことも知った上で、グローリーはおっこに「あなたは一人じゃないわよ」と、続けて「ご両親も見守っているわよと」伝える。
確かに両親はおらず、幽霊も見えないが、代わりに仕事を通して新しい友人と出会えた。グローリー、あかね、真月。不条理な現実世界の中でも頼れる仲間がいることで、自分は決して一人じゃないと感じられる。その安心感があるからこそ、おっこは両親の死を受け止めることができた。
両親は空気に溶けて消えたわけじゃない。この世にいないだけで、きっと天で生きている。ウリ坊も美陽も天に昇ったとして、そこでおっこを見守っている。誰もいなくならない。
以上のことを心で割り切れたからこそ、おっこは木瀬を許すことができた。彼女はもう、交通事故で亡くなった両親の一人娘じゃない。春の屋旅館の若おかみだ。この地に足をつけ生きていく。
5.エピローグ
■お清め
神楽を舞う祭りの日。おっこと真月の二人は、花の湯温泉の源泉「起源の湯」でお清めの入浴をする。そこで真月は、前におっこから聞いた幽霊の話をする。実は過去に、自分を応援する誰かの声が聞こえたことがあるらしい。その声が亡くなった姉だったらいいなと、会いたかったなと真月は思う。
真月自身、辛い時は不思議な存在に助けてもらった記憶がある。それは幻聴だったかもしれないが、何もできない当時の自分にとっては救いだった。まだ大切な誰かは生きているかもしれない。天に昇って自分を見守っているかもしれない。その感覚は特別に変でも悪いわけでもなく、誰しもが心の拠り所として願っていることだ。おっこは真月と美陽の関係を通して、自分の心の在り方を客観視することができた。
■お別れ
神楽の衣装は狼と狩人に分かれており、おっこは狼の衣装を身につけている。もしも彼女が狩人役であったなら、復讐心を抱える暗示となっただろう。だが逆に狼役であることは、他者を慈しむ心を持っていると表現することができる。
狼は神様からいただいた温泉の湯で傷を癒す。そして生まれ変わったかのように元気になり、神様に感謝する。それを見た狩人も湯に浸かり、自分の古傷が綺麗に消えて驚く。狩人は狼のおかげで神様の湯と出会えたことに感謝する。そして人も獣も皆でこの湯を分かち合い、ここで共に暮らすことを誓う。
おっこは晴れ晴れとした気持ちになり、ウリ坊、美陽、真月の4人で神楽を舞い続ける。ウリ坊と美陽と別れるのは寂しいものの、彼らは生まれ変わって再び会いに来ると笑う。これは別れではない。たとえ離れ離れになったとしても、彼らは心の中で生き続ける。おっこが辛い時、道を誤りそうになった時、きっと彼らの声が心に響くだろう。
そして神楽を舞っている間、鈴鬼からのサプライズで観客の中に両親の姿が見えた。だが二人の姿はすーっと消え、代わりにグローリーとあかねが手を振って応援している。心理的に子どもから大人へと自立した瞬間だ。もう幻影は必要ない。でも、彼らの存在は確かにおっこを支えていた。過去を抱きしめ、未来に抱きしめられ、今の自分の背中を押す。おっこが見る現実世界の景色に、たくさんの美しい花びらが空を舞った。
◯テーマ
人を許し、許される。こんな重いテーマを、小学生が主人公の作品で取り扱って良いのか、という意見がある。わたしはむしろ主人公が小学生だからこそ、この難解なテーマが際立ったと思う。逆に交通事故で生き残ったのが父親であったならば、まったく別の作品になって復讐劇が繰り広げられるはずだ。
通常、子どもは社会と繋がれない。家庭と学校の往復だけで世界が固定される。おっこには帰れる家庭が無く、ふらふらと彷徨うしかないところ、仕事を通じて社会と繋がり、新たな自分の居場所を見つけていく。仕事は大変だけど楽しい思い出もあって、たくさん大切な人と出会えたからこそ、おっこは最終的に相手を許せた。
もし、このテーマで大人が主人公の映画を観たければ、クリント・イーストウッド監督作品をお勧めする。満足できなければ自分で映画を撮れ。気に入ったなら映画評を書き、わたしに読ませてくれ。
話を戻す。わたしは分析の最初、「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」という言葉を引き合いに出し、本作における不思議要素は幽霊の存在だと答えた。
で、その1%の不思議には創作者の願いが込められている。だが、その願いは原作者と監督とで質が異なるため、それぞれ作品に込めた想いを調べていく。
■令丈ヒロ子
本作の原作者。その作風から、一部で「百合児童文学作家」と言われているらしい。以下、参考記事を貼り付けておく。
要点だけ書くと、令丈先生は子どもの成長に寄り添える、伴奏者のような児童書を書きたいとのこと。他者との関わりで葛藤したり、許容したりすることは子どもの成長と直接的に繋がる。だからこそ、子どもの成長を描くのに異界の住人は適した設定であり、女の子同士の友情は相手との共感共苦が細胞レベルにも及ぶ。
■吉田玲子
女の子同士の友情と言えば、脚本の吉田玲子も大得意だ。『けいおん!』『ガールズ&パンツァー』、特に『リズと青い鳥』は百合の最高傑作である。女の子同士の会話を書かせたら、彼女の右に出るものはいない。
それと同時に、吉田玲子は許し/許されるがテーマの作品も書いた経験を持つ。映画『聲の形』は、過去のイジメを引きずって生きる高校生の話だ。またTVアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も、戦争で人を殺めた少女が己の罪を自覚する過程を丁寧に描く。
そして本作『若おかみは小学生!』にて、許し/許されるのテーマが新境地に至る。上記の作品は許される側に主題を置いていたが、今回は許す側に焦点を当てていく。
■高坂希太郎
また高坂監督の作品『那須 アンダルシアの夏』も、許す側の物語だった。主人公のペペは自転車ロードレースの選手であり、チームをアシストする仕事に徹していた。奇しくも今回のレースは故郷の近くを通るため、彼は自然と過去の思い出を回想する。兄と一緒に自転車の特訓をし、兵役中に恋人を兄にとられ、故郷から離れたくて自転車競技に没頭した。己を取り巻く環境のすべてが原動力となり、ぺぺは実力以上の力を発揮できたことで、最終的に負の感情を呑み込んだ。
この主人公像を形成する上での、仕事と環境は『若おかみは小学生!』とも共通する。仕事を通して過去の自分と向き合うのは、もはや監督の作風と言っても良いだろう。問題は描き方だ。
公式サイトのスタッフコメントにて、高坂監督が本作で伝えたかったことを書き残している。下記に引用しよう。
この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。
主人公おっこの元気の源、生き生きとした輝きは、春の屋旅館に訪れるお客さんに対して不器用ではあるが、我を忘れ注がれる彼女の想いであり、それこそがエネルギーなのである!
ある役者が言っていた。役を演じている時に生きている実感があり、家に帰りひとりになると自分が何者か解らなくなると。詰り自分では無い何かになる。他人の為に働く時にこそ力が出るのだと!
……ちょっと難しくて、何言ってるかわからない。拷問すっぞ? ……待て、冷静になれ。ひとつずつ調べよう。
・滅私 = 私利私欲を除き去ること。
・五蘊 = 仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称。物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示す。
・上部構造(人の意識) = 政治・法律・宗教・道徳・芸術などの意識形態(イデオロギー)。それに対応する制度・組織。
・下部構造(その時の社会) = 経済活動。上部構造の土台。
……。
…………。
……………………。
駄目だぁ! わけわかんねぇ!
作中でも「二分心」やら、「ホモデウス」がアイテムとして出てくるあたり、高坂監督はこういう学問の知識が好きなのだろう。
・二分心 = 言語能力を持たない古代人は現代で言う意識とは別に、神々(内心)の声を出すことで社会生活を成り立たせていたという仮説。アメリカの心理学者、ジュリアン・ジェインズが提唱。
元々の意味と、おっこと真月が喧嘩する場面(心を分かつ)と字面が合っていたので、神社内の掛け軸として設置したとのこと。深い意味は無い。
・ホモデウス = ラテン語で「神の人」を意味する。未来のテクノロジーの発展により、人類は自らを神にアップグレードしていくビジョンを述べた。著者ユヴァル・ノア・ハラリ。
真月の「未来へ思考を巡らせる」という、キャラクター性を表現するために登場。特に深い意味は無いが、権利関係が問題になっても監督は絶対に消さなかった。後に苦労して許可を得たとのこと。
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なんかせっかく調べても、深い意味は無いパターンが多いような気がしてきた。このストーリーよりも環境設定や舞台設定に重きを置く描き方は、宮崎駿の影響を受けていると思われる。
宮崎監督の『未来少年コナン』を観て感銘を受けた高坂は、高校生の時からアニメーションスタジオで仕事させてもらっていた。そのスタジオが宮崎作品の下請けをしていたので、卒業後そのまま入社する。1986年からフリーとなり、数々のジブリ作品の制作に携わっていたら、いつの間にか宮崎駿の右腕やら、一番弟子とまで呼ばれるようになった。
その宮崎駿から受け継がれた仕事論は、以下の記事にて取り上げられている。
わたしが書いた劇場版『SHIROBAKO』の映画評にもあるとおり、アニメ制作会社の現場は過酷を極める。だが高坂監督は、作品を見てくれる人のことを考えたら、不思議と仕事を頑張れると言う。どんなに作業が辛くても、妥協はしない。クオリティにこだわって手間暇を惜しまず描けば、視聴者は必ず高く評価してくれるのだ。
以上のことを踏まえると、公式サイトのコメントも違う角度から読めるかもしれない。
この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。
主人公おっこの元気の源、生き生きとした輝きは、春の屋旅館に訪れるお客さんに対して不器用ではあるが、我を忘れ注がれる彼女の想いであり、それこそがエネルギーなのである!
ある役者が言っていた。役を演じている時に生きている実感があり、家に帰りひとりになると自分が何者か解らなくなると。詰り自分では無い何かになる。他人の為に働く時にこそ力が出るのだと!
仕事が自分を作る。だが一方で、仕事の中では私利私欲を除く。これは自分を押し殺すという意味では無い。本来の自分は完璧超人などではなく、面倒臭がりでサボり魔の駄目人間だ。自分のためだけに頑張るのなら、いくらでも手を抜くことができる。そうではなく、誰かのために仕事を頑張るからこそ、怠惰な自分に打ち勝つ力を発揮できると、高坂監督は伝えたいのだろう。
◯まとめ
「無職が書く劇場版『SHIROBAKO』の映画評」というタイトルから始まったわたしのnoteだが、何の因果か仕事が関係する作品ばかり扱っているような気がする。自分に対しての嫌がらせか?
だが、ご安心めされい。その後ちゃんと正社員として就職できた。読者の中には無職のわたしを心配して、生活費をサポートしてくれたこともある。嘘だ。そんな奴いねぇ。
わたしは今まで契約社員だった。契約社員の仕事は、なんだか社会と繋がれている気がしない。単純労働は人から感謝されないし、給料も低いので人並みの扱いを受けられず、仕事ができない人はどんどん切り捨てられていった。まるで道具のようだ。
なので、仕事はちゃんとした職に就こう。なんて言っても、現実問題はそう簡単に解決しない。
2018年の厚生労働省の調査によると、20代前半の非正規雇用の割合は男女ともに3割ほど。全体の非労働者人口は4240万人で、サラリーマンの3人に1人が非正規、4人に1人がワーキングプア。
さらに言えば契約社員の仕事は単純労働が多い(職種による)ため、長く働いてもキャリアにならず転職も不利だ。ずるずる働けば働くほど、取り返しのつかないことになる。
本当は契約社員でも3年間働けば正社員になれる法律があるのだが、わたしは契約書にサインさせられて準社員として更新した。あれね、一人一人に説明すべきなんだけど、複数人まとめて契約書を読まされるから、なんか気を遣って手早く済ませようとしちゃう。悪質なブラック会社だったな。
わたしの話はいい。何を伝えたいのかと言うと、専門的・創造的労働者として働ける人数には限りがあり、どうしたって人材は非正規雇用へと溢れ出てしまう。誰かのために仕事しても報われない職場の中にいるのでは、人は頑張れない。どんなに仕事しても自分にはなれないのだ。
しかし、わたしは社会構造の欠陥を指摘したくて、この映画評を書いたわけじゃない。おっこは仕事を通して他者を許せるようになった。ゆえに、仕事で満たされない者は他者を許せなくなる。不満爆発で攻撃的になり、他人の足を引っ張ることしか考えない。
だから、これだけは書かせてくれ。
気なんて済まねぇ。
ムカつく奴をぶっ殺しても、気は済まない。すれ違いざまに悪口を言っても、現実は何も変わらねぇ。本人がカス野郎の烙印を押されて終わり。おっこが木瀬一家に復讐したところで、後味が悪いだけだろう。SNSで有名人に誹謗中傷を書き込んでも、気なんて済むはずがない。その有名人が自殺したら、知らん顔を通すのか? 状況は悪化するばかりだし、殺してしまったら何をしても負けだ。さらなる争いを生む。
おっこも気が済んだから相手を許したわけじゃない。誰かのために仕事をすることで新しい自分を形成し、そこから見える景色が変わったから現実を受け入れたのだ。
内に潜む殺意を押さえ込みたいのなら、まず仕事に専念する。職場でパワハラする上司がいたり、非正規社員で会社に不満を持つ人は、思い切って仕事を辞めて、半年くらい失業保険を受け取りながら仕事を探すのも良い。
とはいえ、現在は世界的に大変な苦境に立たされており、軽々しく転職を勧められないご時世だ。それならもう、なんでもいいからやりたいことやろう。わたしみたいに映画評を書くでもいいし、写真を撮るでもキャンプするでもいい。とにかく何か行動を起こして、状況を打開する。
それは誰かのためにならないかもしれない。今回15,000字書いたところで、せいぜい10スキが関の山だろう。だが、数は問題ではない。なぜなら、この映画評にはわたしの殺意が込められているからだ。
映画を観て、よく調べもせず、好き勝手に酷評する奴。映画を褒めてはいるけど、なんとなくの文章力で誤魔化そうとする奴。ちゃんと調べてあっても、読んだ後に何も残らない奴。そいつら全員ぶっ殺す気負いで、この映画評を書く。
わたしは天才。わたしが書いた映画評の凄さが理解できない奴は馬鹿。だが、おそらくこの映画評は伸びないだろう。あからさまな殺意は、読者に苦痛を与える。しかし、こちとら別に仕事で金もらってるわけでもなんでもねぇ!
結局わたしは、自分が救われたくて本作の映画評を書いた。まだ仕事に慣れておらず、やっていけるか不安な今年の5月に、本作のTV放映を観て引き込まれたのだ。事故で両親が死んだのに、加害者を許せた少女から目が離せなかった。わたしなんかは前の職場を恨み続け、会社ごと爆破したい殺意の渦に呑まれているというのに。
言いようの知れない感銘を受け、わたしは資料集めから始めた。本作のBDを買い、小説もパンフも読み込んだ。まさに無敵状態。この映画評でわたしに逆らうということは、監督に逆らうことと同義である。てか、もはやわたしが高坂希太郎だ。令丈ヒロ子と吉田玲子もマブダチ!
で、ようやく最後のまとめに突入している。長い旅路だった。これで少しは殺意から解放されるだろう。別に誰かから感謝されたわけでもないが、前より違った景色が見えることを願う。
いや、仕事しろ。