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『仕方ない』を目指して

推しのドクターの提唱している『仕方ない』という境地にたどり着くために色々思考している。

まずは似て非なりの言葉の違いについて考えてみた。

「あきらめる」「諦念」「諦観」という言葉は、どれも「諦める」という意味を含んでいるが、ニュアンスや意味が少しずつ異なる。
それぞれの違いを説明すると。

1. あきらめる
「あきらめる」は、一般的な言葉で、ある目的や希望を達成することが難しいと感じたときに、それを放棄することを指します。日常的な状況でもよく使われる言葉です。例えば、「試験に落ちたから、もう勉強をあきらめた」のように、目的や目標を断念する行為を表現します。

2. 諦念(ていねん)
「諦念」は、希望や願望が叶わないことを受け入れて、それに対する執着を手放すという意味合いがある。
ここには、ある程度の達観や冷静さが含まれている。「あきらめる」とは違い、ただ放棄するだけでなく、状況を受け入れて心を落ち着けるというニュアンスが強い。
例えば、人生のある部分を受け入れる際に「諦念の境地に達する」と表現たりする。

3. 諦観(ていかん)
「諦観」は、さらに一歩進んで、物事の本質や成り行きを悟り、それを冷静に見つめる心の状態を指す。
これは、単なるあきらめや受け入れを超えて、より深い理解や悟りの境地に到達している状態。
例えば、「世の無常を諦観する」という表現は、世界の移り変わりや人間の有限性を深く理解して、それを冷静に見つめることを意味する。

まとめると、「あきらめる」は目標を断念すること、「諦念」は状況を受け入れて心を落ち着けること、「諦観」はさらに深く物事の本質を理解し、冷静に受け入れることを意味する。
それぞれ、諦める度合いや心のあり方に違いがありますね。ドクターの「仕方ない」という言葉について、彼の著書から解釈してみた。

『この「仕方ない」という言葉は、日本の文化や歴史と深く結びついています。日本は多くの災害を経験してきた国であり、その中で人々は「仕方ない」と受け入れることを美徳としてきました。これは単なる諦めではなく、どうにもならないことを受け入れ、淡々と日常を過ごすことを意味します。人生の有限性や死の存在を自覚し、出会いを大切にする姿勢にも繋がります [1,治療論 ]』

この「仕方ない」という考え方は、諦念に近い部分がありますが、諦念がより内面的な執着を手放す意味合いが強いのに対し、「仕方ない」は外的な状況を受け入れ、そこで自分のできることを淡々と行うという姿勢を示している。
このように諦観とも似たニュアンスを持ちつつも、もう少し日常的な受け入れの態度に重点が置かれていると言える。

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