本を読むというのは船で海へ乗り出すようなものだ 『ミチクサ先生』 伊集院静 2021
ミチクサ先生とは、夏目漱石のことである。
夏目漱石と聞いて、みなさんは何が思い浮かびますか?
吾輩は猫である
坊ちゃん
こころ
千円札
松江
熊本
イギリス留学
神経衰弱
正岡子規
ホトトギス(高浜虚子)
朝日新聞
胃潰瘍
道草
夏目漱石のことは、子どもの頃から知っている人が多いのではないだろうか?
知っていることをたくさん羅列することができても夏目漱石を知っていることにはならないとあらためて『ミチクサ先生』を読んで感じた。
ミチクサ先生とは如何に。
生後すぐに里子に出された時から、始まっているらしい。
そして中盤、後盤、ゴールへ至る道のりとして、夏目漱石の口から語られている。
私は、漱石の人生のどこが道草なのだろうと思いながら読み進めた。
学校制度が始まったばかりの時代に小学校を変わることや、留年することはそんなに珍しいことではなかったのではないだろうか。
そして、私が道草と思わなかったのは、「人生とは道草のようなものである」という認識が私の中にあるからではないかと気がついた。
夏目漱石が道草をしていたとしたら、その道草のおかげで奥深い文学作品を当時の人々も後世の人々も享受することができている。
万々歳である。
漱石自身にとっては歓迎すべき道草と避けたい道草があったかもしれないが……。
読書が子どもの頃から好きな私は、次の一文に反応した。
本を読むというのは船で海へ乗り出すようなものだ。一頁一頁、櫓を漕ぐように進んでいけば、見たこともないような海の眺めが見える
漱石の兄大助の言葉である。
私は、一冊の本が大海原へ、冒険の旅へ連れ出してくれるということかと思った。
兄大助は、英語が苦手な漱石の頭を時には叩きながら勉強を教えてくれたり、養父はもちろん実父からも援助を受けられない漱石に教育の道を開いてくれた人物である。
自分の好きな漢文などを学んで再び、英語の本に向き合う漱石。
疲れたり、行き先が見えなくなった時もあっただろう。
兄の言葉を思い出し、一頁一頁読み進めたのだろう。
一冊の本を読むことは、舟で海に漕ぎ出すようなもの
一頁一頁をめくるのは船の櫓を漕ぐようなもので、疲れたり、行き先が見えなくなる時もあるが、やがて今まで見たことのないような素晴らしい眺めが。世界があらわれる・・・
『ミチクサ先生』 伊集院静
漱石のことを畏友と認める正岡子規に、漱石は上の言葉で伝えている。
夏目漱石の東大時代からの友人もたくさん出てくるが、かなりの枚数が正岡子規に割かれている。ということは、俳句についても書かれている。夏目漱石の伝記小説で与謝蕪村に出会うとは思わなかった。
そして、私事だが次の週にも思いがけないところで与謝蕪村と出会う。
小説を小説として愉しむ楽しみ。
そして、作者や書かれた時代背景を知って小説を楽しむ愉しみ。
あらためて夏目漱石の文学を愉しみたくなった小説である。
何を読もうかな。