パリジェンヌのエクソダス願望
いくつかの小説を読んで
最近のフランス小説をいくつか読んでいると、パリに住む女性たちは皆な南の遠い彼方に行きたい、と切望しているのではないか?と思ってしまう。
例えば、Leïla Slimani の "Chanson douce"(やさしい歌)では、共働き夫婦の nounou(ベビーシッター)が夏に幼児たちの面倒を看るためにギリシャの離島に連れて行ってもらい、その年の冬の間じゅう、経験した夏・実際に見た海にもう一度行きたいと思い続ける話が出て来る。
また、Olivier Bourdeaut の En attandant Bojangles(ボージャングルを待ちながら)では、精神病棟に入院している主人公の母が容態の改善がないまま、パリの病院を抜け出してスペインの別荘に行きたいと提案する。夫と息子に逃亡を手伝ってもらう展開がある。
どうして、そんなに南の遠い彼方に行きたいのか?
ある日恋の終わりが
話は変わるが、ジョルジュ・ムスタキの "Les amours finissent un jour"(ある日恋の終りが)の歌詞に、以下のような部分がある。
À quoi bon te regretter 後悔して何になるのさ
Mon bel amour d'un été 夏の私の美しい恋を
Voici déjà venir l'hiver ほら既に冬が来ている
Bientôt le ciel sera couvert まもなく空が覆われる
De gros nuages plus lourds 重苦しい分厚い雲によって
Que notre chagrin d'amour 私たちの恋の悲しみよりももっと重い
このシャンソンのようにパリの冬は、雲がたちこめて重苦しくて暗い。しかも、何か月も続く。その冬に耐えかねて太陽輝く南に行きたいというのは、ごく自然に思われる。
でも、それだけだろうか? パリジェンヌの彼女たちがその街を抜け出して南に行きたいと思う理由(わけ)は?
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?