見出し画像

『百年の孤独』初読感想文 前編 〜「象徴」と「止まらない流れ」と「おとぎ話」〜

※これから読む方々のためになるべく物語の結末部分に触れないようにしたいと思っていますが、説明上どうしても物語の流れや途中のポイントなどネタバレしてしまうかもしれません。少しでもダメな人はご遠慮ください。
※ 同時に公開中の後編はネタバレ全開です。ネタバレ大丈夫な方はそちらも読んでいただけると嬉しいです。


はじめに

 まずは文庫化! 
 嬉しいです。
 次は『薔薇の名前』の文庫化を希望します!
 ジョン・アーヴィングの『また会う日まで』の後の、文庫化していないもの全てと、すでに文庫化したものも文字を大きくして新版にしていただけたら嬉しいです。

 切に願います。


 さて。
 気に入った長編小説を再読ばかりの私ですが。
 「百年の孤独」は初読です。
 でもあまりにも面白かったので、早速感想文をあげてみようかな、と思いまして。
 ただ、初読の印象なので。
 思い違いなどあったらごめんなさい。
(ただいま再読中です。「再読感想文」はそのうち落ち着いたら記事にしたいと思ってます。)


こんな人におすすめ?

 おすすめ。というか。

 難しい解説は他の方々にお任せして。
 あくまでも、初読でとりあえず私がいいなと思った「百年」をお話しするだけなので。

 あ、それ面白そうだな。とか。
 それ、私も面白いと思った。とか。

 思っていただけると嬉しいです。



1 冒頭の一文 〜「仕掛け」と「象徴」〜


長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。

ガルシア・マルケス『百年の孤独』 新潮文庫 p.9

 まず気になったのは冒頭の一文でした。

 物語の始まり。
 「銃殺隊の前に立つはめに」という衝撃的な状況。

 しかし次の文では。

マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。

同上 p.9

 あれ? 銃殺隊は? 氷は?

 と、読み進めても一向にその描写は出てきません。

 この章の終わり、24ページ後のp.33になって「氷」のことが語られ。
 そして物語が三分の一ほど過ぎたあたりの200ページほど後。p.203。
 ようやく大佐が「銃殺隊の前」に立つ場面に。

 あれ? これってガープと同じ仕掛けかな? 

 と、最初、私は思いました。

 というのも。
 しばらく前にnoteで紹介したジョン・アーヴィング『ガープの世界』。
 「その2」でお話しした冒頭の「仕掛け」に似ているなあと。
 その仕掛けというのは。

① 冒頭。衝撃的な事件を明示する一文があり。
(「百年の孤独」の場合は「銃殺隊の前に立つ」ですね。)
② からの。一見無関係にも思えるエピソードが積み重ねられて。
(マコンドという村が出来上がっていく過程とか、ブエンディア家の様々な出来事とか。)
③ 忘れた頃に事件の詳細へ戻る
(24ページ後と200ページ後ですね。)

 ガープの場合は事件の詳細にストンと戻る感じが結構快感で。
 この、「長い物語を牽引する仕掛け」、が私は大好きなのですが。

 「百年の孤独」も、構造だけ見るとちょっと似てますよね。でも読み進めていくうちに。

 あれ? ちょっと違う?

 と思いました。

 「百年の孤独」は。
 ②のエピソードの積み重ねが、③の事件に向かって集約されていく感じ、スピード感、みたいなものがありません。
 「銃殺隊」の場面に至っても「あ、なるほどここで繋がるんだ」という、「ストン」という感じが全然なくて。
 あくまでも長い家族史を語る途中、書かれるべきところに来たから書かれただけ。という感じ。

 「百年」の冒頭の一文。
 どうやら「長い物語を牽引する仕掛け」ではないようです。
 
 ではなぜこの文章が冒頭にあるのだろう。
 なぜわたしはこの一文に心惹かれるのだろう。

 と考えてみると。

 この一文。前半の「銃殺隊の前」という言葉は衝撃的ですが。
 後半は。

「父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。」

同上 再掲

 父のお供。つまり幼い日の思い出の。初めて見た氷遠い日の午後

 詩的美しい感じがします。そしてこれ。

 アウレリャノ・ブエンディア大佐という人物の。
 この人はこんなふうに生まれ、こんな子供時代を過ごし、さまざまな経験をし、成人して、図らずも大佐になってしまい、銃殺隊の前に立つことになった。
 けれども、死を前にして彼が思い浮かべるのは。

 幼い日に父と初めて見た氷

 その意味するものは。
 父と同様に、彼が幼い頃夢中になった錬金術であり、発明であり、実験の日々であり、氷はその始まりの象徴
 彼は死を前にして、他でもないその氷を思い出す。

 そんな人間であるのだ。と。

 この文章。
 冒頭だけでなく、途中、似た意味の文章が、確か2、3回は繰り返されて。
(記憶があやふやですみません。)

 そのたび私は。
 ああ。彼は今こんなことをしているけれど、本当はああいう人だったな。
 と思い出し。
 
 彼の人となりを思い描き、次第に深まる彼への理解

 こういう感じ。
 なかなかいいなあと思いました。

 じわじわきました。

 

 もう一人。
 同じような文章で描かれた人物がいます。

 大佐の革命の顛末が一区切りして。
 新しい章に入ると彼の子供や孫世代が物語の中心になります。

 その285ページから始まる章の冒頭の一文。

アウレリャノ・セグンドは長い月日をへた臨終の床で、初めての子を見に寝室へはいっていった、あの雨の降る六月の午後を思い出したにちがいない。

同上 p.285

 「臨終の床」
 死を前にした彼が思い出したもの。

 こちらはそのまま、子供が生まれた時の描写が続きます。
 ですが「臨終の床」に至るのは先のこと。
 物語の冒頭の一文とちょっと似ていますね。

 ああ。このアウレリャノ・セグンドという人は死を前に自分の子供のことを思い出す人なんだなあ。

 と、私は時々思い返しながら、彼の物語を読み進めていきました。

 そしてゆっくりと、静かに。
 アウレリャノ・ゼクンドという人物を知ることになり、理解が深まり、愛着を感じるようになって。
(アウレリャノ自身はかなり騒がしい人ですけど。)

 こういう感じ。
 良いです。

 

 さて。
「百年の孤独」が発表されたのは1967年。
 その数年後の1981年、『予告された殺人の記録』が発表されるのですが。
 冒頭の一文は。

 自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。彼は、やわらかな雨が降るイゲロン樹の森を通り抜ける夢を見た。──中略──「あの子は、樹の夢ばかり見てましたよ」と、彼の母親、プラシダ・リネロは、二十七年後、あの忌わしい月曜日のことをあれこれ想い出しながら、わたしに言った。

ガルシア=マルケス「予告された殺人の記録」 新潮文庫 p.8 


 「自分が殺される日」という衝撃的な言葉から、彼が見た夢、その解釈をする母親の証言へと続き。
 そして肝心の事件の詳細はずっと後に。

 同じ作者の物語ですが、こちらの方は、物語を牽引する強烈な「仕掛け」感が強いと思います。

 実は私。こちらを先に読んでいたために、「百年の孤独』もそうなのかな? と思ってしまったのですが。

 二つの物語の、冒頭の一文が果たす役割を比較して読んでみるのも面白いと思います。


2 止まらない流れ

 さて。この物語。
 私に本を閉じる機会をなかなか与えてくれませんでした。

 うっかりすると現実を忘れて何時間でも読み続けてしまいそうな。
 このままでは全て読み終わるまでページを捲る手が止められないかも。なんて危機感を感じるほどに。

 それはもちろん、ブエンディア一族の百年にわたる栄枯盛衰
 次から次へ起こる出来事。
 父と母とその先祖から、子や孫へ連なる膨大な時間と情報量と。
 そのものの面白さ。
 が、理由の一つであると思いますが。

 それを淡々と語る語り口も大いに貢献しているのではないかと思います。


 例えば11ページ中程から14ページまで。
 この4ページほどの間。

 全く改行がありません!

切れ目のない一つの段落」になっていて。

 そこに書かれているのは。
① 村にジプシーがやってきて、望遠鏡を持ち込む。(p.11から。)
② 巨大なレンズの実験に大佐の父ホセ・アルカディオ・ブエンディアは兵器利用を思いつく。
③ そのレンズとウルスラの金貨を交換してしまったため、ウルスラは嘆く。
④ 金貨はウルスラの大事なものだったのに。
④ しかし危険な実験を続けるホセ。火事を出しかける。
⑤ ホセは実験の提要と図解を当局に差し出す。が返事はない。
⑥ それを、再び村を訪れたジプシーのメルキアデスに嘆くと、彼はレンズと引き換えに金貨を返し、地図や研究をまとめたものも与える。
⑦ ウルスラ子供たちが畑で汗水を垂らしているのに、ホセはますます実験に没頭。
⑧ ホセは突然陶酔状態になりおかしな状態に。そしてある日の昼飯どき、家族にそれを吐き出す。
「地球はな、いいかみんな、オレンジのように丸いんだぞ!」(p.14。ここまで改行無しです。)

 ウルスラの嘆きとか。
 ホセの身勝手だけど憎めないところとか。
 問題を孕みながらもちょっと滑稽というか、楽しく読んでしまう。
 面白いエピソードなのですが。
(この後ウルスラの金貨、色々あります。面白いです。)

 しかし、これだけの出来事を全て一つの段落で、休むことなく描く。淡々と
 そしてこの感じ。基本的に終わりまでずっと続くので。

 これ。クセになります

 そして。
 たくさんの出来事を切れ目なく一つの段落に収める、その一方で。

 たった一日を、改行は少なく、でも数ページにわたって描く場合も。
 それは403ページから409ページまでの6ページほどなのですが。

 それはある人物ある一日
 いつもの変わらない日常の中の、その人物の意識の流れ。
 それを、他のエピソードを語る時と変わらない「改行ほとんど無し」「淡々とした語り口」で丁寧に追っていくので。
 初めのうちは気が付かないのですが。

 そのうち、その丁寧さにある予感がして。
 ああ、いよいよその時が来たのか。という予感が。

 ここ。圧巻です

 あまり詳しく描くとネタバレになってしまうのでここでは書きませんが。
(誰のどんな一日かは後編でお話しします。)

 あるいはまた。
 ある人物が、自分の死の準備をする、その数ヶ月間。
 その人物の心理を丁寧に追う数ページ。
 家族すら気づかなかった、その人の内に秘められた思い。そこに至るまでの行動の理由が吐き出されます。
 ほとんど改行なしの同様の語り口で。

 この部分も素晴らしくて。
(こちらも、ある人物とは誰なのかは後編で。)

 きっとこれから私は、これらのエピソードを読むためだけにも、この物語を何度となく読み返してしまうと思います。
(それと、決して目立たないサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダの生涯をなぞるために。これも後編で。)

 小さな日常も、銃殺隊の出てくるような恐ろしい出来事も、一人の人物の一日の意識の流れも、死を覚悟してその準備をする人の数ヶ月も。
 ほとんど全て、出来事の大小に関わらず行替えも、感情の起伏も少ない淡々とした語り口で語られ、積み重ねられていく。

 全てはただそこにあり、ただ語られるだけ。
 繋がり、連なり、その流れは止められない。
 人の生き死にのように。太古から続く時間の流れのように。
 止められないのだ。と。

 そんな気になってしまう文体。
 
 この文体にハマってしまうと。

 読む側の私も休めない。もう読み続けるしかない。
 次から次へと。途切れなく。終わりまで。

 という気持ちになってしまい。
 止まりません。

 良いです。

(でも、日常生活に支障をきたします。)



3 魔術的リアリズムとおとぎ話

「百年の孤独」といえば魔術的リアリズムですが。

 ちょっと不思議な出来事が、日常的で散文的な描写の間にも同じ文脈で語られるので、物語全体に不思議な印象を残します。

 私も大好きな手法ですが。

「百年の孤独」を読んでみて感じたことは。

 これ。魔術というよりおとぎ話だなあ。と。


 例えば、72ページから始まる不眠症のお話
 眠れなくなる病気が村に蔓延するのですが。

 これをちょっと、おとぎ話風にイメージしてみます。

「そして町中の人が眠れなくなってしまいました。」
とおばあちゃんは言いました。
「えー? そんなの信じられないよ。」
と子供達は騒ぎます。でも続きが気になる子供たち。
「ねえ。それで? それでどうなるの?」
とみんなでおばあちゃんを急かしました。そこでおばあちゃんはにっこり。
「そうだねえ。」
おばあちゃんはのんびりと話し始めます。
「眠れなくなった町の人たちは最初は喜んでいたんだけどね。どういうわけか、みんなものを覚えていられなくなってしまったんだって。それでアウレリャノはものに名前を書くことを思いついてね。ホセのお爺さんまでそれを真似してねえ。」

※ 引用ではありません。勝手なイメージです。

(おとぎ話の文体、難しいです。世界的名作を勝手にすみません。)

 
 こんなふうに。
 おばあちゃんが語るお伽話に耳を傾ける孫たち。
 楽しいひとときが過ぎていく。

 おとぎ話を聞くことは、やっぱり楽しいものです。
 ちょっと不思議で奇妙なお話なら尚更。

 ここに物語の楽しさ
 物語の力を感じます。

 つい読んでしまう魅力です。

 
 一方で。
 おとぎ話のような表現。
 「百年の孤独」では、別の効果も感じます。
 それは。 

 百年の孤独には恐ろしい出来事がたくさん起こります。
 革命とか。虐殺などという物語。

 実際の歴史的事実が物語の元になっているそうですが。
(そのことはここでは触れません。安易にお話ししてしまってはいけない気がするので控えます。)


 歴史を知らない私にとっては。
 ただただ恐ろしいばかりで。 

 恐ろしい事件の物語。
 それをそのまま描くと生々しくて、ある人とっては読むことが辛くなって読めなくなってしまったり、それらが特定の人々や時代のことだと記述されることで、自分とは関わりのないことに思われて共感できなくなってしまったり。
 という危険があるかなと思います。

 でも、おとぎ話的な不思議な語り口で表現することで。
 その悲しみや苦しみが少し緩和されて受け入れやすくなったり。
 抽象化されることで、当事者でなくても共感できるようになったり。

 まだ事件による心身の傷の癒えない人々に対する配慮にもなったり、あるいは政治色を抑えたりすることになるのかも、と思います。

 おとぎ話的な表現にはそういった側面もあるかなと思います。

 
 例えば208ページ。
 息子の血が、母の元へと流れていくという描写があるのですが。

「ドアの下から洩れ、広間を横切り、通りへ出た。トルコ人街を通りぬけ、角で右に、さらに左に曲がり、ブエンディア家の正面で直角に向きを変えた。閉まっていた扉の下をくぐり、敷物を汚さないように壁際に沿って客間を横切り、さらに一つの広間を渡った。」

同上 p.208

 それは実際には起こり得ないこと。
 でも妙に心惹かれる不思議な出来事。
 
 敷物を汚さないように流れていくのは母のためでしょうか?
 それでも、母の元へ帰りたい気持ちとか、自分の死を知らせたい気持ちとか。
 母に対する息子の思いが込められているような気がして。

 恐ろしい場面のはずなのに。切なく、静かな愛情に溢れているような。

 こういう感じ。
 おとぎ話的表現の力だと思います。

 これは「百年の孤独」の大きな魅力だと思います。


4 魅力的な登場人物(後編の予告)

 登場人物も皆魅力的。
 初読を終えて。私がいいなと思った人物は。

 ① 「預言者で英雄」 メルキアデス

 マコンド村創設から最後の時まで、ブエンディア家に大きな影響を与える人です。ある種、預言者として語られることが多いと思いますが。
 私にとっては英雄です。
 その理由は後編で。

 ② 「母の強さと孤独」 ウルスラ。

 ブエンディア一族で最も頼りになる力強い母ですね。
 この人も私にとっては英雄かも。
 その詳細も後編で。

 ③ 「ひっそりと、逞しく」 サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダ。

 「必要なとき以外はそこにいるのかいないのか、わからないような女」(p.178)などと言われてしまう人ですが。
 でも今回この人のことをお話ししたくてこの記事を書いたと言っても過言ではないかも。というくらい私は好きな人物なのです。
 これも詳しくたっぷりと後編でお話しします。

 この三人なのですが。

 ここであまり詳しくかくとかなりネタバレになってしまうので。
 この先は後編で。
 ネタバレを気にせずお話ししたいと思います。

 ネタバレ大丈夫な方や、既読でこの続きも読みたいと思ってくださる方。

 後編もぜひ。

 後編では。
 とりわけ私が大好きな。
 サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダの魅力をお伝えしたいので。
  


#海外文学のススメ

いいなと思ったら応援しよう!

十四
よろしければサポートお願いします!