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ジョン・アーヴィング『ガープの世界』 その3(全6回)
その3 「のちに彼はこう書いている」式文章。
※ 物語の決定的な部分はなるべく言及しないように気をつけていますが、説明上どうしても、多少のネタバレをしてしまうと思います。少しでもダメな方はご遠慮ください。
さて。
私が『ガープの世界』を何度も読んでしまうほど好きな理由の二つ目は。
『「のちに彼はこう書いている」式文章』です。(名付け方が下手ですみません。)
ガープの母ジェニー・フィールズは自伝を書いて有名人になり、ガープも作家になります。そのため、「のちに彼女は(彼は)こう書いている(こう言っている)」という文章が時々出てきます。
例えば。第一章。ジェニーについて。
看護学はすぐに実地に役立たせることのできる学問だし、その勉強には看護婦になるという以上の奥の動機は潜んでいないように思えた(のちに彼女はその有名な伝記の中で、医師に自分を売り込もうとする看護婦が多すぎると書いているが、しかしそのときは彼女の看護時代は終わっていた)。
この文章を読むだけで。
この後彼女は伝記を書き(!)、それが有名になり(!)、結局看護婦を辞める(!)ことが(こんな物語の初めの段階で!)わかってしまうわけですが。
さらに。
とりあえず彼女はこの先も生き延びて、後に回想する機会を得るのだ。
とか。
どうやらこの先、彼女は当初の考えとは違った見方をするようになるらしい。
とか。
それはもしかしたらこの先、彼女の考えを変えるような何か別の事実が発見されるか、あるいは、彼女が自分の物の見方そのものを変えてしまうような大きな事件を経験することになるのかもしれない。
とか。
物語の先を、未来を想像することができます。
私はこれが好きなのです。
物語の中の時間がふわりと広がる感じがして。
また、同じ第一章。
「母は一匹狼だった」とガープは書いている。
という文章。
これは母親ジェニーの若いころについて評した息子ガープの言葉ですが。
この文章も未来(成人した子供)から過去(母親の若い頃)への言及となり時間的な広がりが意識されます。
同時に、当事者(ジェニー)ではない別の人物(ガープ)のものの見方、視点が存在することによって、空間的広がりみたいなものも意識されて。
時間的にも空間的にも広がって、少しずつ世界が確かなものになっていく感覚。
こうして世界はリアルさを増して。
まるで登場人物が、フィクションではなく本当に生きて語っているような。
まるでガープなりジェニーなりの、作家としての言葉が実際に後の世に残されているような。
そんな気分になって。
この感じが好きなのです。
ジェニーやガープがものを書く設定でなかったとしても、こういった語り口は成り立つと思いますが(「数十年後おばあちゃんになってから彼女はこう言っていたが。」なんて)。
「のちに書いている」などと言われると、彼らが作家であることをより強く意識させられることになって、そんなところも面白いなと思います。
などと、考えてみましたが。
この技法。
何より私が大好きな、もっと重要な仕事をしてくれます。
それは。
やはり第一章。
はまぐりの生態を知ったジェニーは。
人間というものははまぐりと較べてそれほど神秘的でも、また魅力のあるものでもないことを発見しつつあった。
といういうのですが。
これだけでも十分皮肉が効いていて面白いのですが。この後、
「母はこまかい区別のできる人ではなかった」とガープは書いている。
と強烈な皮肉が。
どうやらジェニーは、後でこんなふうに息子ガープに書かれちゃってるらしいです。フィクションですけど。
ウチの母は若い頃こんなこと考えてたらしいけど、でも違うよね。こういうことだよね。
という、息子から母への遠慮のないツッコミ。みたいな。もちろんフィクションですけど。
「のちにこう書いている(言っている)」という表現は他の小説でも時折見かけます。おそらく文章で表現する小説という媒体ならではの表現なのでしょう。
この技法。
「これはフィクションだけどね。」と言添えたくなるほど、リアリティーを出す効果があると思います。
というより。
「いや。でもこれフィクションでしょ?」と、読者としていちいちツッコミを入れたくなる楽しさがあって。
好きなんです。
『ガープの世界』では、はまぐりのエピソードのように、登場人物が過去の出来事や他者の意見にツッコミを入れてる? みたいなところもあって。
ちょっとキツめの気の利いたジョークのような。
アーヴィングは皮肉の効かせ方がうまいなあといつも感心してしまいます。
でもこのエピソード。
これで終わりません。
さらに畳み掛けるように。
はまぐりと人間のいちばん大きな違いは、はまぐりと違って大概の人間にはユーモアのセンスがあるということである。あまりユーモアのある方ではないジェニーに両者の区別がつかなかったのも無理はない。
と、地の文でオチがつきます。
この二重三重に重ねられた皮肉。
もう。
「のちに彼はこう書いている式文章」とか関係なくなりましたけど(笑)。
面白いです。
私は何度読み返しても、ここで思わず口元を緩めてしまうのです。
次回は。
その4「小説の中の小説」と「作家論」です。
前回 その2 『まるで連想ゲームのような』
その1 『狂気と悲哀。だけでなく』はこちらから
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