集中と疲労、意識と無意識
緊張状態を得て何かに集中することで、より良いパフォーマンスを発揮できる。ならなぜ常に緊張状態にして何かに集中できる状態にしておかないのだろうか。
それは「適度な緊張状態」の設定が難しいからだと考えられる。緊張感のまったくない環境では何かに集中することができずにボーっとしてしまう。そうした環境なら緊張感を持たせて何かに集中させた方がよい。一方で緊張感が強すぎるとさまざまなことに集中してしまい、他の重要な情報を見逃してしまうかもしれない。
そして何より強い緊張感と集中には疲労が伴う。大学受験本番や就職活動での最終面接、結婚相手の家族との顔合わせや、客先重役を前にしたプレゼンなど、強い緊張にさらさせるとそのときは疲労を感じなくても、家に帰って安心すると大きな疲労感に襲われる。
常に緊張状態ですべてに集中し、無限に物事を考えることができれば理想だが、現実的には疲労、つまりはエネルギーが必要となる。
豊かな国では食べ物にも寝るところにも困らないが、そうでない国に産まれる可能性もある。どういった環境に産まれ、どういった仕事や生活をする必要があるのかは産まれる前には分からない。
つまりさまざまなことに集中するべきという考えと疲労は対立する。
また感情システムの制約により、私たち意識は無意識以上の感覚や感情を呼び起こせない。意識的に自由に緊張感を得ることはできないし、集中するための感覚や感情の制御にも限界がある。
どのくらいの緊張状態を想定し、どんなことに集中するべきだと規定するのか、それは遺伝的に生まれ持った意味付けをベースにし、経験的、無意識的に広大に広がった記憶の海の中で、私たち意識の行動は制御されている。