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映画感想 『ナミビアの砂漠』 3 社会VS子供
Amazon Primeで映画『ナミビアの砂漠』が出た。
私は、すぐさま500円を支払い再生ボタンを押した。
画面が開かれる。雑踏の中から現れるカナ。町を乱暴な歩き方で闊歩する彼女には、少しの迷いもない。
カルネボレンテのロンT、珍妙な形のバケットハット、あずき色のミニスカート。ズンズンズン。コラ世界、私のお通りだ。私に生意気な口聞くなよ。
ぷはぁー、タバコうめえ。
恋愛ってなんだろう。
恋愛って人生だ。
恋愛がなくても生きてはいける。生存はできる。
でも、人生ってなんだ?
なんで、別れたら死にたくなるほど苦しむのに、恋愛なんてするんだ?
なぜなら恋愛は人生だからだ。
人は、強欲だから。持てるだけ持ちたい。
恋愛は余分ですか?ただの贅沢?
出来るだけ良いものを両手に抱えていたい。
待って、一個は口の中に入れて、もう一個は膝の間に挟んじゃおう。
ほら、両手が空いた。
あと二つは持てる。
誰も私を止める権利なんかない。私は、才能もあるし努力だってしてる。
なのになんで私を責めるの?
毎日こんなに必死に生きてる。
息切れするほど毎日走っても、なんでまだ私を責めるの?
自分のなけなしの才能とか、精一杯の努力とか、そういったものを
目一杯使って欲しいものを
欲しい状態を
勝ち取りに行こうとする。
それが人生なんだよね。
じゃあ、欲しいものが何もない時は?
私は恋愛を勘違いしていた。
そう、恋愛って、いかに美しさを見せ合うかであるものだと思っていた。
でも、恋愛は、いかに醜さを見せ合うかであった。
好きな相手の醜い姿は、可愛いとかエロいとかかっこいいとかを超越して、
「愛しい」
なんだ。
愛は全てに勝る、なんて、クソダサい口説き文句が冗談じゃなかったなんて。
全くびっくりである。
相手のことが好きになったあとなら、またはなる前でも、
我々が恋愛の相手に求めているのは、「状態」である。
どれだけ自分に対して心を開いているのか、その状態の度合いを確かめることで相手に愛情を感じるようになり、相手からの愛情を感じる。
どんなに醜いものであっても、人は素の表情が一番魅力的なのだ。
それが、どれだけ態度の悪さとして現れても、それは相手が自分を愛している証拠なのだ。
人は人と繋がりたい。だって寂しいから。
でも、誰だって良いわけじゃない。
愛想もせずに、目も見ずに話すようになっても愛してくれますか?
ちょっとくらい性格が悪くても、
相手が自分に愛情を感じる姿をさらけ出せる才能があればモテてしまう。
だって、一番強力な「愛しさ」を差し出すことができるから。
相手が自分に心を開いているっていう実感は、
そのまま自己肯定感に繋がる。
相手が自分に対して否定的な言葉を投げかけても、
そんなことを言えてしまうその状態が、私を受け入れているから。
この映画はとにかく「態度」を描いている。
彼氏に対する態度、世界に対する態度、
仕事に対する態度、恋愛に対する態度
恋人の親に対する態度、食に対する態度、
社会に対する態度、ファッションに対する態度、
父親に対する態度、母親に対する態度、
遊びに対する態度、友達に対する態度、
ホストに対する態度、生活に対する態度
一人でいる時の態度、誰かといる時の態度
前半、精神を病む前のカナは、世界をおちょくっている。
この態度には、この表情には、覚えがある。
子供と不良だ。
反抗的で、最強状態な目つき。
この世で一番強いのは私だ、と疑っていない。
もちろんそれは真実ではない。
でも、その幻想を自分の中に飼うことが、自分の中に子供を飼うことである。
社会は、私たちが年齢を重ねるほどに、
私たちの中の子供を殺すように強要してくる。
いわゆる「反抗」とは、
「ちゃんとすること」を強要してくる圧力への反抗である。
恋愛の相手に求めるのは、自分が子供になることの自由である。
受け入れる相手がいて、初めて自由が成り立つ。
アートは、大人が子供でいる自由を持てる場所。
社会からの迫害を受けながらも隠し持っていた子供を表現する。
それが私の中の子供を殺そうとする社会への反抗である。
なぜ子供であるとダメなのか?
「社会に迷惑がかかるから」だ。
社会が求める成長とは、社会に準ずる態度を育むことであり、
実は、生物としての成長とは別問題である。
ふざけた口調、ふざけた身体の動かし方、ふざけた目線の動かし方、
カナはそういった自身の実存、つまりは在り方で世界を挑発する。
子供っぽさというのは社会への敵対である。
私はちゃんとなんかしない。
みんなに私をあげたりなんかしない。
社会への反抗とは、
子供であることを、
自由であることを、
好奇心を持つことを、
活力を持つことを、
楽しむことを、
諦めないということである。
自分が飼っている子どもの命を守る行為が反抗である。
そのため、あらゆる「楽しみ」というのは、反抗になり得るのだ。
逆に言えば、反抗を伴わない楽しみには、中身がないため、どこか虚しい。
言っちゃ悪いが、それは子供騙しかゲートボールだ。
目的を伴わない遊びには手応えがない。
開放感という名の自由の味がしない。
捉えようとしてくる社会に渾身の一撃をくわらせるエクスタシーがない。
大人としてちゃんとするというのは、
それは、その人個人のためではなくて社会のため。
他人に迷惑をかけないためにちゃんとする。
社会はどうしても子供が邪魔なのか?共存はできない?
彼氏が殺してしまった子供の命は、
社会が殺そうとしてくるカナの中に住む子供の命のメタファーに見えた。
なんで、みんな子供を平気で殺せるの?
こんなに愛しくて、可愛くて、面白くて、
なんで、私の”子供”には価値がないの?
私は大人になりたくないわけじゃない、
子供を殺したくないだけ。
ダメだ、こいつは分かり合えない。クソムカつく。
カナはセックスの様に情熱的に彼氏にD Vを振るう。
「あなた」はどうして私を理解してくれないのか。
他に選択肢はないのか。
そう心の中で叫んでいた。