映画感想 『あみこ』 モラトリアム性の強烈な肯定
※ネタバレあり
『ナミビアの砂漠』に続き、
山中遥子監督の『あみこ』もAmazon Primeで出ていたので観た。
商業映画ではない、山中監督の処女作である。
ナミビアの砂漠で主演した河合優実は、この作品をミニシアターで観て
女優になりたいと思い、高校生の時に山中監督に
「いつか監督の映画に出たい」と手紙を送ったそう。
この話自体が映画のようで美しいのであるが、
本作はその伏線として、開始地点として、相応しい破壊力を持っているようだ。
女子高生のあみこは、変わり者で頭が良く、本質的なことを考えるほどに、
生きていることの無意味さ気づき、そうすることで、社会性をはらむ事象が無意味に思えてしまい、全てに虚無的な気持ちを持っている。
これはいわゆる、モラトリアム期の基本マインドの一つである。
簡単に言うと、「生きてたってみんなどうせ死ぬんだから何の意味があるの?」
という中二病とも取れる考えである。
実はこれは、掘り下げるほどに核心をついている。
しかし、ほとんどの人は、そんなこと考えたって仕方がないと、考えないようにして生きて社会に入っていくわけである。
それは、「嘘」の中に入っていくことである。
それが社会的には「大人になる」ということだからだ。
あみこの周りの人は、誰も彼女のような強烈な虚無感を抱えておらず、
人生の意味なんて考えてもいないようだ。
そのことで彼女は深い部分で分かり合える仲間もおらず孤独や物足りなさを感じている。
そんな中で、魂で会話できるサッカー部のアオミくんと出会う。
この映画は、ナミビアの砂漠の説明書にもなり得る内容だと思った。
より主人公が世界をどう見ているのかを口に出すからである。
あみこは、社会的な価値観、当たり前、に対しての嫌悪感と、
社会的になっている人たちへの気持ち悪さを一貫して口に出し続ける。
本質的なことは何も考えないようにして、社会に用意された幸せや正しさの形に
自分を適応させていくこと。
果たしてそれは本当に幸せなのか?楽しいのか?
そんなことを考えないから、大人なのである。
社会の奴隷としてのクオリティを上げることが大人になるということである。
それは、自分の気持ちを殺して、社会的な価値観をあたかも自分の本来的な価値観のように持つことである。
その見返りに手に入るのは、安定、安心、安全、である。
社会的になることで、とりあえず生きていくことに不自由はなくなる。
その代償として失うのは、自分の思想や在り方である。
それは、あてがわれた価値観に文句を言わないことである。
頑張って勉強して、就職してお金を稼いで、お金より愛が大事だということに気づき結婚して子供を作る、
でも、愛はいつか冷めるし、子供は自分の都合のいい時だけ感謝してくる。
だからいくつになっても、人生は虚しいって感じるんだろうな、どうせみんな死ぬんだし、だから全部意味ないよね。
あみこはそう言う。
そんなこと言っててもどうにもならないし、楽に死ねるわけでもない。
だからもう意味とか考えずに最強になればいいと思う。
アオミくんはそう返す。
あみこは、生きることの答えを手に入れたわけではないが、
人生の無意味さを同じ深度で共有できる仲間を得た。
そして、人としても、恋愛対象としてもアオミくんに惹かれていく。
このアオミくんというキャラクター。
完全に、
ナミビアの砂漠における、唐田えりかのポジションである。
人生への虚無感と、社会的な成長の強制に苦しんでいて、
そのことを共有できる人がいないことも苦しい中、
自分のことを理解してくれる人が現れることがどれだけ救いになるか。
『ナミビアの砂漠』と『あみこ』は
単なるモラトリアム期を描いた作品ではない。
つまり、人がモラトリアム期に持っている思想自体を肯定している映画なのだ。
それは単なる若さ、未熟さ、間違い、
などではなく、
物事の本質である。
社会的な動物としての「問題」である。
そして、一貫して、社会性に対しての反抗を示す、言動をし続けるということは、
非社会的であるということなので、
ナミビアの砂漠と同じく、ものすごく開放感がある作品である。
これは、あみこの思想を作品としてジャッジしていないので、
あみこの思想がそのまま作品の思想となるからである。
不良というと、粗暴であるイメージがあるが、
それは不良のカテゴリーの一つでしかなく、
本質的に不良性とは、非社会性のことであることを知った。
尖っているというのは、非社会性の表れである。
社会に反抗を示し、自分を保っている状態である。
後半、アオミくんが、「普通」の女の子と付き合い出して、
それを受けてあみこは、
「なんであの女なの?あんなの大衆文化じゃん」
とアオミくんを否定する。
あなたはもっと本質的に生きている人だと思っていたのに、
社会性の外に立って生きている人だと思っていたのに、
「あの女レディオヘッド聴くの?」
俺、サンボマスターが好きだよ
「は?」
過剰に社会的になることを要求される日本において、
うつ病であることが当たり前になり、自殺者も世界的に見てもトップクラスであるこの日本において、
社会的になることは、そこまで不自由になることは、本当に「正しい」のか。
骨の髄まで社会的になった時、
「PURE」なあなたはもうどこにもいない。
そのことを声高らかに表現する映画が存在することに私は救われた。