発達障害は言い訳か?
こんなポストが流れてきた。
まずTwitter時代からSNSなんていうものは低俗なものだ。
疑い半分というより遊び半分で見た方がいい。
それを加味したうえでこのポストの内容を紐解く。
かなえ先生の主張をひと言でまとめると、「ミスしといて障害のせいにするな」
ということだろう。
病名を主張したところで、周囲は理解も同情も示してくれない。
それは確かにそう思う。
僕は最近の《カテゴライズ文化》にうんざりしている。
よく分からないものにレッテルを貼り付けているだけで、根本的な解決には何ひとつ繋がらない。
発達障害であろうがなかろうが、仕事が出来ないという事実があるならクビになるだけだ。そこに診断名をつけたところで何も変わらない。
発達障害とひとくくりのレッテルを貼っても、結局は人それぞれ困り事や程度は違うと言う。ならばそもそも発達障害とカテゴライズすること自体に意味がないのではないか。
困り事はみな等しくある。苦手なことはみな等しくある。それにレッテルを貼ったところで何か解決するのだろうか。諦める理由にはなると思うが。
最近、発達障害の他に出てきた意味の無いカテゴライズとしてHSPがある。
定義をひと言で言うと、《繊細気質》だ。
繊細な気質のことをHSPと言う。それ以上でもそれ以下でもない。
《いじめ》が《パワハラ》になっただけだ。本質、中身としては全く変わらない。いじめがパワハラという名称に置き換わったところで、人間の意識が変わる訳では無い。
学校では未だに起こるものだが、それは価値観が違う者同士が集まるからというところに問題があるわけで、名称のせいではないのだ。
カテゴライズすることによって、名称を変えることによって、当事者の悩み事や困り事が改善されるわけでは無い。なぜなら先程書いたように中身が変わっていないからだ。
問題として捉える深刻度は変わるかもしれない。
《性格》や《個性》から《障害》と呼ばれたりするのだから(ポジティブに考えようとして、個性だと主張する人もいるが)。
じゃあどうするかとなった時、そのレッテルの変更は何も生まない。
HSPが判明したとて、対処や改善の手段としては《繊細であること》と同じだ。
刺激のあるものから距離を置けばいい。レッテルの名称が変わったところで、対処法は変わらない。
それは発達障害も同じだろう。発達障害であろうがなかろうが、忘れっぽいならメモを取るなりマニュアル化するなり自分も周囲も工夫をする。それでも出来ないなら解雇だ。その一連の手順に、レッテル名称の変更は不要だ。発達障害だろうがうっかり性格だろうが工夫も対処も変わらない。
最初の方に書いたが、諦める理由にはなる。
性格というニュアンスだと何とか矯正できそうだが、障害だと、もうどうにもできなさそうなニュアンスだ。
なので《障害が判明したので、努力や配慮、工夫をする》というのもニュアンス的というか対処的によくよく考えるとおかしいというか。
《障害だと分かったので工夫も努力も無駄》という解釈が、名称にのっとった解釈なのではないだろうか。
でないと診断名を付ける必要がないと思う。
努力や工夫を諦める理由として、そういうレッテルを貼るのが適切ではないのか。現状の日本では違うようだ。
ポストの主張では
「障害を免罪符にするな」
という内容だが、ならばそもそも障害というカテゴライズを無くすか、障害が判明した時点で仕事を諦めてもらうかしかないと思う。
言い訳の材料にすら使えないカテゴライズは、ただの飾りだからだ(言い訳は良く言うと《証拠》でもある)。
そっちで勝手にカテゴライズしといて、いざ失敗して言い訳すると「甘え」「努力でどうにかなる」と言われても困る。
それならばと自身の弱点や特性を伝える事である程度許しが得られるなら、それこそ障害の名称、レッテルは不要だ。
理解されやすいようにカテゴライズしているという側面もあるだろうに、「ひとりひとり特性は違う」とか「周囲の解釈に差が出る」となるのならば、やはりカテゴライズには意味がない。
まあ周りからすると障害があろうがなかろうが、仕事が出来ないなら辞めてほしいというだけだろうが。
HSPも結局人それぞれ違うということで、分類がされてややこしくなっている。
カテゴライズして簡単に性格分類をしようとしているのに、カテゴライズすることで逆にややこしくなってしまっているのだ。