どうしてネットで過激な言葉を言ってはいけないのか
少し前にnoteで
「死ね」という言葉をどうして使ってはいけないのか
という内容の記事があった。
筆者さん曰く
昔のネット掲示板では
「死ね」という言葉を使って
いろんな言葉遊びがあった
それによって生まれるドラマや笑いがあった
それを一緒くたに過激な言葉だと
規制をかけることに
疑問視している内容だった。
私はネットをうろついていると
こういう思想の人に出くわすことがよくあった。
「死ね」以外にも
キャラクターや有名人に対して
セクハラ発言をすることも
これと同類のノリではないかと思っている。
私の感覚で言うと
その感性は基本受け入れられないものだった。
同じ日に読書が日課の女性の記事に
割と私の意見に近いことが
書かれていた。
本を読んでいるといろんな思想の人に出会う
ちょっとした言葉で
深く傷つく人がたくさんいる
それにきちんと寄り添い
配慮する言葉選びが
公開で言葉を扱うものには
必要なことだと
書かれていた。
私の学生時代
非常に偏った意見の本を読んで
深く傷ついたことがある。
それは学生が出版していた本だからか
特定の生まれの人を徹底的に悪く書き
なんの配慮もせず
物語を終わらせていた。
こんなことがあって良いはずがないと
学生ながら思った。
強い言葉
大きな主語は
RTやいいね稼ぎになる。
でもそれで傷つく人も大勢いる。
強すぎる言葉はいきすぎると差別になり
相手への独善的な思考の押し付けにしかならない。
見知ったノリを理解する仲間だけの空間なら
強い言葉での冗談も
笑い話になるかもしれない。
どうして
インターネットは不特定多数の人間が見ていて
どんな生まれの
どんな生き方をしてきた人が
どんなタイミングで見るのか
全く計れないことを
理解する気がないんだろうなぁと
思う。
記事を書いたひとは
軽いノリで「死ね」という言葉を扱っていたけど
身内を亡くした人
職場や学校で「死ね」と言われた人
他にも個人では想定できないような形で
その言葉にナイーブになってる人がそれを読んでしまい
酷く傷つき
もしも本当に死んでしまった場合を
なぜ考えないのだろうかと思う。
有名人やキャラクターにセクハラ発言をするのもそうだが
男性 女性関係なく
それで自分が好意的に見られると
思っているのも本当に怖いと思っている。
そして
こども向けのキャラクターなら
こどもはもれなく傷つくだろう。
私もこどものころ
自分がヒーローだと思ってたキャラが
大人に汚されているのを知って
めちゃくちゃ傷つき
いまだにその作品が見られなくなった。
ネットではそういう発言を言うことこそ礼儀であり作法だと頑なに言い続ける層がいるが
これだけインターネットがオープンになっていても
それを言い続けてることが
本当に私は哀しいことだと思っている。
過激な言葉は相応のリスクがある。
そのリスクを受け入れた上で
さまざまな配慮を
見えないようにしつつ
ネタに昇華できる人は確かにいる。
しかしリスクを受けいれない
意味を理解しようともしない人のネタなど
誰も笑わないだろう。
強い言葉
大きい主語
凝り固まって変える気はない思考
みんな持ってて
みんな無意識に言ってしまう言葉だけど
それを公に発表するリスクも
一度考えるべきじゃないのかと
少し思ってしまいました。
私も含め
皆が完璧にできることではないけど
数字への欲に呑まれないように
なぜ 言ってはいけない言葉があるのか
いつか私が見かけた記事の人も
考えてくださるといいなぁと
思いました。