魔術的呪術的神話的ヨーガを如何に現代的に解釈し直すか?(プラーナの説明の加筆あり)

先日の続きとして、さらに魔術や呪術としてのヨーガの具体的な説明を試みる。以下の文章は相当に長いが、ここ数年でヨガについて書いたもののうちでも相当に本質的というか大事な内容になっている。最近色々書いていたものも、ここに書いたものに比べれば全て「余談」と言ってもいいくらいだ。だが内容は相当にマニアックで、この情報を必要とする人もほんとうに限られるだろう。それでも、ヨガの成り立ちというか原型を知る上で最重要なテーマで、しかも余談にもかなり大事な事を書いている。ちょっとでもヨガに関わりがある人なら、時間がある時にガッツリ読んでもらいたい。では。

ある時期(8世紀?11世紀あたり?)以降に発達した密教系ヨーガ(※密教なんて書くとおどろおどろしいけど、スタジオヨガも含めて日本で行われているヨガの99%は密教系に分類されるヨガ)は基本的にその技法の論理を神話や物語として語ってきた。つまり、「こういうふうに呼吸しろ」とか「このようなポーズをとってバンダはこう使え」みたいなテクニックが、全てなんらかのメタファー(暗喩)やシンボル(象徴)あるいはイコン(神のイメージ)に置き換えられ、そのプロトコルがストーリーとして説明されてきたという事だ。さらにそれは単なる比喩的な説明にとどまらず、そのストーリーを自分の身体内で再現するのがヨガのテクニック全般であった。いきなり荒唐無稽な話になったと思われるかもだけどまあ聴けや。

具体例を挙げると・・

◇身体の最上部、頭頂にはシヴァ神がいて最下部、尾骶骨のあたりにシャクティというシヴァの奥さんがいる。この奥さんをシヴァのところに連れてきて夫婦結合すればメデタシめでたし。シヴァのところへ向かう奥さんは旦那と離れているせいなのか怒れる凶母カーリーであるが、帰りは色々とマン足するのか肝っ玉かあさんのドゥルガーとして帰還する。では、奥さんを頭頂まで連れていくにはどのようにするか?(クンダリニーヨーガ)

◇喉には月があってそこからはアムリタという不死の妙薬が常に滴っているんだけど、それがどこまでも滴れてチンポのところまで行ってしまい、底に溜まって性欲とかセックスとかセンズリに無駄に消費されてしまう。それゆえ人は不死でいられない。そこで不死の妙薬をエロ方面で無駄使いしないように顎を締めたり逆立ちをしたりしてアムリタを下半身に向かわないように逆流させる(ジャーランダラバンダ・ヴィパリータカラニなど)

◇神(もしくは大文字のSELF)はサハスラーラで生まれ、アジュニャーで「あ、俺」という自我に気づき、その瞬間に自他未分化だった混沌は「俺/俺以外」というホストの本のタイトルみたいな二元に別れ、同時に『俺以外』すなわち世界が誕生した。
次にヴィシュッダでxyz軸を持つ空間という、変化が起きるための容器が生まれ(これが、space -空 の端的な意味)変化が起きることにより因果すなわち時間も生まれた。
以降、変化が起こる事によりアナハタで「流れ」が生まれ(これが端的な意味での風)、その時点では微細だった「流れるもの」はのこり3つのチャクラを下降しながら火→水→土とドロドロと固まっていき最下部で物質世界が確定する。
この二元性の現象を還滅させ再び最初の純粋な「神」に回帰するためにはこのプロセスを逆回しさせることになる(チャクラを用いるテクニック)

◇チベット密教では、人が発心して修行して悟るまでのプロセスのメタファーがそのまま身体内の行法に凝縮されている。精液を菩提心として(例えるのではなくあくまで『nはxである』と同置-UPASSするってことが重要。ウパニシャッドを読むと「◯◯とは△△なり」という文が頻出するがこれが同置。例えているのではなく同じものと見做している)、それを体内の火(チャンダリーの火)で炙って融解させ、ヨガでは意外と重視されていないビンドゥを心滴と呼んでそれを特定の場所に布置したり動かすことによって仏教的歓喜(あるいは法悦)を体験する。これらは本来、外部世界を生きていくことによって修行の階梯として経験される事だが、それを身体内の生理機能や想像力に置き換えて擬似体験するというのがこの修行法の肝。
ちなみにプラーナヤーマの最重要の要点「身体内に入ったプラーナはチッタとワンセットとして考える」を、チベット密教ではこの心滴を使ったチンポ瞑想によって「悟る」つまり実感するとなっている。それによって初めて意識によるプラーナのコントロールが可能になると。まあその段階でプラーナと意識はイコールになってるので当たり前といや当たり前だわな。
ちなみにこのような神話や物語への置き換えは秘密主義のナータ派に由来するインドヨーガよりもチベット密教の方がオープンになっていて情報も調べやすい。ここをもっと詳しく知りたいならチベット密教の方からアプローチするのがいいかもしれない。

さて、このように密教系ヨガは、身体を祭壇や寺院あるいは宇宙全体に見立てて、そこにカミサマを呼んだり火を灯したりといったなんらかの儀式をイメージの中で行う。

『身体を祭壇に見立てる』とかいかにも古臭い経典主義っぽくてアレなので、要するに身体の中に劇場を作って、そこで自分の技法の目的に至る論理あるいは因果をプロットにして神様に演じてもらうと思ってもらえばいい。または太陽とか月とか火とか風みたいな舞台装置を操作して狙いの風景を現出させるとか(結果的にそれが曼荼羅になったりしてね)、いかにも本業舞台監督らしい例えだよね。でまあ、そういうのがオリジンの密教系ヨガの姿なわけさ。

重要なので改めてまとめると、

◆技法の目的に至る論理あるいは因果をプロットにして身体内劇場で神様に演じさせる

◆ 太陽とか月とか火とか風みたいな舞台装置を操作して、狙いの風景を身体内劇場に現出させる

これらを行法として行うのが本来のハタヨガとかクンダリニーヨガみたいなやつだ。◆をつけたこのふたつの要点は、本来の密教系ヨガ(しつこいな。ハタヨガとかクンダリニーヨガとかクリヤヨガに置き換えてもらって結構)を理解する上での大前提の話で、この仕組みを理解してないと各ヨーガ技法の

「その行法がなぜそういうやり方をするのか?の根拠」

を遡及して探り当てる事が全く出来ないことになる。

だからみんな様々な根拠不明のヨガのテクニックを

「だってグルジにそう習いましたから」

「だって経典にそう書いてありますから」

で鵜呑みにして盲目的にやるだけになるのだ。だけどヨガは何度も言うが主知主義なので、その根拠や意味を知ってやらないとほとんど意味も効果もない。例の呪術廻戦の

「情報の開示によって効果が底上げ」

ってのと似たような話よ。底上げどころか知らないと効果そのものがそもそも立ち現れない。だからどんなエラいヨガの先生も大ベテランも、誰も『プルシャの独存』とか『アートマンとブラフマンの合一』とか『クンダリニーが上昇してチャクラがフルアクティベーション状態になる』みたいな昔から言われているヨガのゴールにたどり着いていない。ばかりか、エゴのコントロールや感覚器官の制御すらままならない。ただ人に見せるための難しいポーズが出来るだけ、みたいな事になる。

そして先日の話と繋がってくる。上記の例えのように、『シヴァ夫妻の再会』とか『月からしたたる不死の甘露アムリタ』とかはヒンドゥー教の神話の文脈の話だし、菩提心だのチャンダリーの火だの歓喜だのは仏教の話だ。また、原初の霊が「我」という主体に向けて回帰するエコー形の意識に気づいてそれと同時に我以外を認識し二元の世界が開闢する、なんてのも、世界の大多数の宗教には受け入れられない創世神話だろう。YHVHがそうして誕生したなど、キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も決して受け入れないはずだ。

そこでこれらの物語や神話からローカリズムやあるいは信仰を要請する要素を取り除いて単なる『システム』に還元する。シヴァ夫妻の神話や月から滴るファンタスティックな甘露や、あるいは仏教坊主の説経節から、

☆『心の仕組みや世界の構造をカルトグラフィ化した回路と、そこを廻る相反する仮想の位相のモビリティと熱作用』

という仕組みだけを抽出する。

☆そしてかのローカルな創世神話は人間共通の『自我と認識が発生するプロセス』に再解釈される(※脱線するが重要なことなので書いておくと、ここで取り上げているサーンキャやヨーガ哲学は、再解釈もなにもそもそも神の誕生とか宇宙開闢のプロセスなど一切語っていない。プラクリティの転変の話は、単にこのような自我と認識がどのように発生するかの仕組みを説いているに過ぎない。空間や時間や変化の潜在性が生まれたって話は、単に自我がそれを認識できるようになったって事。にもかかわらずプラクリティの転変がまるで宇宙の始まりみたいに語られているのは、サーンキャの『多元論的二元論』の多元をマナスやアハンカーラ、パンチャなんとかなどのタットワの数のことだとする誤解から来ているのだろう。だがこれはとんでもない間違いで、そもそも『元』というのはそれ以上還元できない最小要素のことを言うので、マナスもブッデイもタンマートラやインドゥリャもプラクリティから発生している以上『元』として数えることはできない。サーンキャもヨーガも、あくまでプルシャとプラクリティの『二元』でしかない。ではなぜそこに『多元』が付くのかというと、一人一人の人間がそれぞれ個別に持つ「自我と認識」の二元論をこの哲学が語っているからなのだ。さらに余談だが、仏教ではプラクリティにあたるものが個別か万人共通かというのは現代でも論争が続いているらしいが、サーンキャやヨーガに関しては個別と解釈しないと転変や還滅の理論が破綻するし、ほとんどのサーンキャ・カーリカーの解釈書もひとりつづに個別のプラクリティがあるという立場をとっている)。

☆そしてその天地開闢のプロセスを段階ごとに区切るようにシンボル化されているチャクラは、「自我/全体」「個人/世界」の比率の変化のステップとして捉え直される。

これらが「最大公約数」とか「理の結晶のヨガ」とか「乾っからに乾ききったエッセンスのみのヨーガ」の具体例だ。

ついでに先日のワークショップでやったハタヨガの骨子になるプラーナヤーマをこの文脈で解説し直すと

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人間は見たり聞いたり感じた物事をただそのまんまあるがままには受け取れず、必ず善悪や好き嫌いや快不快に振り分ける。その人間の二分法思考という特徴を身体内に取り込んで解消のための儀式を行うために、先ずはプラーナという『流れ・モビリティ』と結合した心素(チッタ)を二元に染め分ける回路を身体内に仮設し

「その回路の存在ゆえに人間はそのような『シロかクロか?』の判断や評価から逃れられないでいる」

という初期設定を用意した。スターウォーズで云うと、冒頭に最初の状況説明が文字として斜めに流れていくアレみたいなもんよ。

さらにその二分法思考をいかに解消するか?という解決法も必要になる。そこで

「2つの属性に分たれた心素と結合したプラーナを、それぞれ逆相位の回路に流し込むことによってその心素の属性を対消滅させ、回路自体も破壊する」

という道筋が示され、

「プラスマイナスの回路が焼き切れた以上、結果として心素はどちらかの属性を帯びる事ができなくなる。つまりは人間は認識したものに対して善悪や好き嫌い快不快の判断をくだせなくなり、見たもの感じたものを、見たまま感じたまま、つまり

『ありのまま』

にしか受け取れなくなる」

という結末を迎える。
これがヨーガの骨子とも言える基本的なプラーナヤーマの持つ『物語』である。

もちろんこの『物語』は本来『神話』として先日の文に書いたようなもっとローカルな月と太陽やカミサマやロマンが付帯していたが(回路は天地逆転したシヴァのポコチンをイメージして作り上げる)、かようにモディファイすることによって、一般的でシンプルな、因果だけの『物語』まで洗練された。洗練された神話や物語は単に『システム』と呼んでも違和感がない。

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と云うことになる。

最後に、いくらローカルな神話要素を取り除いても最後まで残る、ヨガの最重要にしていかにも怪しいターム「プラーナ」のことも書いておく。どんなに世界中の人に納得してもらえるような合理化一般化をなしたとしても、その理論の血液ともいえるプラーナが依然として不可思議で漠然としたエネルギーのままでは元も子もない。シメとしてそのプラーナも怪しげな神秘性を引き剥がし、明確な概念として説明しなおさなければならない。


説明その1:ややこしい(下にもうちょい分かり易い説明をつけたので読み飛ばしてもいいかも)

さて、上ではプラーナを「流れ」とか「モビリティ」って書いた。では流れている主体はなんなのか?というと、実はそこに主体はない。「流れる」の指示語、というか主語は存在しない。それがプラーナだ。

インド哲学や仏教の「空」の理論は言語における文法問題として考えると理解しやすい。と云うか、人間が言語を通してしか思考できない以上、思考を通して見ている世界もまた言語の網であり、よって文法が世界の構造そのものだ。人間はいついかなる時や状態であろうと必ず述語付きで記述され(私は男、私は歩いている、私は暑いなど)、何をどうしようと一瞬たりとも述語から切り離されることは不可能だ(この辺は世界が言語だという話も含めて仏教の中観思想や龍樹に関する本でも参考にされたし)。そして例えば悟りとか解脱とかプルシャの独存なんてのは、その述語から切り離された「我」だけになった状態だと理解される。まさしく思考を超えた彼岸なのだ。

そして、常に主語述語の文構造の中に閉じ込められている我らを主語のみの状態に解放するためのキーになるプラーナは、それゆえに「主語を持たない述語のみ」の言葉になる。

「要するに」と言って簡単に説明しようとすると意味自体が変わってしまうのであまりやりたくはないのだが、あらゆるものが変化したり流れる時に常にそこにプラーナがある。と云うよりも、何かが変化したり流れる時の動力因や原因にプラーナと云う名前を与えている。あらゆるものに関してそうなので、人の心の動きの動力因もプラーナだ。ただ、

「プラーナが心を動かしている」

と言っても間違いではないのだが、それだとまるでプラーナという何らかの実体があるような誤解を生む。プラーナは主語ではない。あくまでもこの場合の人間の身体内の意識作用の仕組みを語る上でのみ

「心が動いた状態をプラーナが流れてると見做す」

という説明が成り立つ。この「見做す」も同置(UPASS)だ。要するにプラーナとは何らかの実態や概念を指し示す名称(主語)ではなくその状況ごとに生起する「状態」を表す述語でしかない。これがプラーナの本質だ。そして実体であれば信仰や世界観によってその存在を『信じる/信じない』や『受け入れる/受け入れない』の話も出てくるが、述語であればそもそも全ての人間がただ受け入れるしかない。というよりもこれは受け入れる受け入れないの問題ではない。この世に「流れ」という状態など存在しないと主張する人間などいるだろうか?これを理解すればプラーナのもつ「不可思議なエネルギー」的な怪しさも解消できる。もちろん中国の「氣」とも全然違う。唯物論者も無神論者もキリスト教やイスラム教の原理主義者もこのプラーナという述語を受け持つ言葉に納得するしかない。これは文法の問題であり信仰や世界観の問題ではないのだから。


説明その2:もうちょいわかりやすい(加筆分)

違う方向でもう一度説明しなおすと、要するに量子力学のヒッグス粒子とか数学のナントカ予想みたいな

「ここにこういう都合のいい何かが流れてると仮定すると、すべての辻褄が合って矛盾なく説明もできるんだよなあ」

っていう『理論の中の予想部分』をプラーナって名前つけてるだけなの。
その存在が証明されたり確認されてるわけではないけど、こういう事象や現象が成り立っている以上、ここには確実にこのような役割をしている「何か」があるはずだ。その「何か」をプラーナということにしていると。

だから、プラーナは空気にもあり食べ物にもあり木を育てるのもプラーナだし人もプラーナがなければ意識を保てない、万物の源!みたいな万能概念になってしまっているのよ。

つまり、自然のサイクルが維持されてるのとか、あらゆる生命活動とか、我々の意識がなぜ発生して保たれているのか?
みたいな事を探求していってそれらの謎を少しづつ解明しマダラ模様に埋めていったその残りのスキマの空白部分を『プラーナ』と呼んでるわけ。だからあんなに掴みどころが無いと。

まとめると、要するにプラーナはそれ自体が独立した実態を持つのではなく、あらゆる主語を受け止める「流れる」を表す述語であり、生命活動や自然の法則の謎部分を補完する「スキマ概念」なのだ。
だから、確かに氣や不可思議なエネルギーがあったとして、それもまたプラーナだとも言えるのだが、その逆「プラーナって氣のことよ」は成立しない。あとちなみに丹田とチャクラも全く無関係。


さて、ざっくりと駆け足で(その割には長い)説明をしたが、これがユニバーサルスタンダード化したヨガの完成系の一つのモデルだと思っている。あらゆる世界観や信仰や信念からフリーの抵抗ゼロのヨガ。一切のローカルな予備知識を必要とせず、一切の信仰や文化のアドバンテージを許さないプレーンで公平なヨガ。ヨガをフィジカル方面のみに狭隘化させる解剖学や生理学への安直な置き換えをせずに、自己の内外に渡る解放と深化のための豊醇な理をまるごと残したまま一般化できる可能性はまさにここに於いてのみだと思う。

だがここまで詳しく丁寧に説明しているふうを装いながら、実は肝心の具体的な行法に関してはほとんど書いていない。さすがにそれは正直めんどくさいのもあるし、何よりよく言われているように書かれているものだけを頼りにやってもロクな事はない。そういうのはまたいつかどこかで対面でやる機会を待つ。そもそも、ここまで書いてきたことも正確に理解してもらえるとは全く思っていないし、曲解されてそれを第三者に語られるのは本当に怖い。

前に、あるマニアックな専門用語を2つからめて検索していたら興味深い内容のブログに行き当たった事がある。

正直「すげえな。こんなことまで知ってるんだ」と驚いたが、読み進めていくうちに何のことはない、俺の書いたものあるいは話したことのパクリだとわかった。なぜなら、俺の個人的な意見や独自の説明や考えがそのまま書いてあったからだ。

別に正しい内容が本当に伝わるならパクリとか気にしない、というかむしろやってもらって結構なんだけど、そういう単なる剽窃はもし誰かにそれに関して訊かれてもそれに的確に答えられないでしょ? 

知識なんてものは覚えてそれを他人に一方通行で開陳することくらいなら誰だってできる。ブログとかYouTubeとかインスタあたりでさ。質問の出ないようなクラスやワークショップもそうだ。だけど本当に知っているとか理解しているというのは、

「人に訊かれた時にちゃんと応えられる」

ことができるということだ。俺がワークショップをやる際に事前に必ず「どんな疑問でもなんでも応えるから質問考えてきてね」と伝えるのはそういう理由による。
ある哲学者は

「馬鹿の度合いはインプットとアウトプットの間隔の短さと正比例する」

と言った。読んだり聞いたりしたものをすぐに「だそうですよ」なんて人に話す奴はまごうかたなき馬鹿だし、ヨガ始めてたかが数年で他人に教えられると思っちゃうそのおめでたさが馬鹿なのだ。人に教える前に、先ず人に訊かれた事に応えられるのかよ?

そんなわけで、ここに書かれている内容もネタや蘊蓄や変わり種のトピックとして第三者に受け売りするよりも、「なるほど、そういう考えもあるのね」程度に受け止めて頭の奥にでもそっとしまってもらった方がいいかもしれない。正直言って、ヨガ習い始めて長くとも1年以内にこのような考えの端緒にも辿り着かなかった者はこういった密教的でクラシックなヨーガのセンスが無い。何でも要はバランスで片付けちゃう者、プラクリティがプルシャに経験を積ませるだの、カルマに良い悪いがあるなんて与太話を素直に受け止めたような人間も同じだ。言い方が酷いなら「向いていない」でもいい。俺の周囲にも、マニアックな技法や用語的な知識は俺以上にありながら、それを語ろうとしても「ジャーゴンをまた別のジャーゴンに置き換える」ことしかできない連中はたくさんいる。まるで辞書をひいてるような説明しかできないって事だ。そういう人間の話を「ああ、本当はちゃんとわかってないんだ」ってすぐに見抜けない人間もまた向いていない。

だけど本当にセンスがあれば、この長々しい能書きを読んだだけでも自分で技法もシークエンスも違わず構築できるはず。マハームドラーもヨーニムドラーもシャクティチャーラナも、各教典がそれぞれ同じ名前で全く違う行法を述べているように、自分で新しいそれらを作り出すことができるはずだ。

そして俺は、誰か俺以外が作り出したそのような新しいクラシックなヨーガをぜひ見てみたい。範馬勇次郎が自分の最強のライバルになるように息子を育てたように、いつか誰かがそういう飲み屋で盛り上がりそうなネタを持ってきてくれるかも知れないと、要するに最高のヨガの話相手が現れるように種を撒く。ワークショップやったりわざわざこんな面倒くさい話をSNSに書いたりしてるってのも、ある意味そういう理由によるのだよ。

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