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【ヨガ】完全呼吸法について その②【Perfect Yogic Breathing 】



さて、この『全体/個』『ブラフマン/アートマン』の行ったり来たりをシンボル化したマントラ(真言)がある。「SO/HUM」というマントラだ。「ソーハム」と発音する。アルファベット表記もHUMとHAMの2種類あるがどちらでもよい。

SOとは「それ」という意味で、鶴光のオールナイトニッポンでナニとかソレと言ったらアレのことだが、インドで「それ」と言うと普通はブラフマンの事を指す。

要するに固有名というのはそのものを他と区別して限定してしまうので、ブラフマンとは全ての全てであるにもかかわらず、その名を固有名で名指すとそれもひとつの限られた言葉としてその中に閉じ込められてしまい、ブラフマンという概念が自己言及的なパラドックスに陥いることになる。それを避けるための苦肉の策として「それ」みたいな指示代名詞的なもので指し示すことがあるのだ。

まあ難解な哲学的な話はさておき、キリスト教だって神の名は決して口にされず、単に「父」とか「ヤーヴェ」「イェホバ」みたいな仮の呼び方で呼ばれたり、日本でも中心にいる人物は「やんごとなき方」なんて呼ばれたりする。あれと同じだと思えばいい。

対してHUMとは自分の事、つまりソーハムとは「それ/じぶん」と言ってるに過ぎないわけで、ここまで来れば唱え方も自ずとわかるだろう。息を吸って個が全体に希釈される時は「SO」と念じ、息を吐いて全体から個が析出される時には「HUM」と念じる。この「ハムとは私」「ソーとは全体」という、真言の音と自分がネイティブとして使ってきた日本語の意味を完全にリンクさせれば、「ソーハム」と念じるだけで自分⇄全体のイッテコイが意識の深いところで想起されるようになる。これがこのようなイメージングにマントラを組み合わせる事の効果だ。

ちなみに呼吸の中でこのマントラを唱えるなら当然発音はせず頭の中で念じるだけになるのだが(これをアジャパジャパという)、呼吸関係なしにふつうにマントラとして詠唱するやり方もある(これをジャパという)。もちろん息を吸いながら「ソー」なんて発音できないので呼吸とは別になるのだが、その際でも背骨の中の上昇下降のイメージングはもちろん必要である。

唱え方(念じ方)のコツも解説しておこう。
このソーハムマントラ、呼吸音をそのままマントラにしたという説もある。我々も呼吸音をカタカナで表すと「スーハー」なんて言ったりするだろう。あれがインド的には「ソーハー」になってるという話だ。なのでもちろんウパニシャッド的な「全体/個」の概念をイメージしながらも、音としては素直に呼吸音だと思って唱えれば(念じれば)いい。

ただし、最後のHUMのMにはコツがいる。音としては「ハーム」ではなく「ハーン」に近いのだが、サンスクリット語というのは発音する口の状態がそのまま言葉の表す事象に対応していたりする。この場合、「ーン」は、最後の「ン」で口を閉じる事が、個が完全に外部との交わりを停止しエゴの殻に閉じこもる様を表している。
外部(全体)から借りてきた空気を外に吐き出しきり、「ン」によってこれ以上外部のものが内部(自己)に入らないように出入り口を閉ざす。この瞬間、【全体/個】の比率は0:100になり、ムーラダーラに沈潜する『完全なる個』は極点に達する。だから最後の「ーン」で口を閉じる時は、外のものを一切受け入れないエゴの結晶をイメージして唱えてみよう。(※発音をあくまで「ハーム」だとする人もいるが、俺としてはそこは別にどちらでもいいと思う。要は、個が自己に閉じこもる状態を口の形として表すことが重要なのだから、同じように口をとじれば「ン」でも「ム」でもどちらでもよかろう)つまり単に呼吸の擬音である「ソーハー」では、無限に広がりゆく全体性とデッドエンドのエゴの対比は上手く表せないのだ。だからエゴを表す「ハー」の方に終止音を加えて「ソーハム」になるって訳。

呼吸の話に戻る。

よくこのような呼吸法に関しては「深く呼吸すればするほど良い」みたいな肺活量記録やロングブレス競走のように語られる事が多いが、呼吸の深さというのは

「どれだけ吸う吐くを深く沁みじみと味わえるか」

という話であって、別に深呼吸の量を単純に追求するような記録やら数量主義的な話ではない。もちろんそうやって呼吸筋を鍛えていけば、沁みじみ深く味わう時間も長くなっていくのだからそういう鍛錬もまた必要かも知れないが、実際のヨガ行法を行いながらその都度最大深度記録に挑戦する必要なんて全くない。
そういう限界に挑戦壁を突破アスリート的なアプローチをしている間は、呼吸において最も大事な

「呼吸を通して何をみるか?」

なんてアプローチは取れる筈がない。なので、もちろん最初に述べたような肺周りの呼吸能力を最大限活用しながらという意味ではあるが、実際のヨガ行法のなかではせいぜい最大肺活量の70%から90%未満くらいで呼吸すればよかろう。

要するに完全呼吸とは、エンジンに例えると3気筒のエンジンの3つのシリンダー全てを円滑に動かせるようにしようって話なのに、それが何故か

「常にフルパワーでエンジンを回し続けよ」

って話になってしまっているのだ。

そしてコツ的な意味で呼吸においてなにより重要な点は、吸ったり吐いたりしているその最中よりも、『呼気と吸気が反転する地点を如何にスムーズに切り替えるか?』にある。キャパ100%で深呼吸なんかしてたら息が反転するたびに「ハウッ!」「デゥッ!」「ヒクッ!」みたいな極端な切り替えが起きる。呼吸の切り替わりはスイッチバックではダメで、緩やかなカーブを描いて反転しなければならない。呼吸は箱根登山鉄道ではなく山手線のイメージなのだ。

いずれにせよ、呼吸の最大の欠点は、なだらかな一定の運動ではなく2つのパターンが絶えず切り替わる運動だという事。

ヨガに於いてこの呼吸というのは、宇宙の誕生と滅亡と再生(生起究竟)や人の生き死に(輪廻転生)、あるいは季節の巡りや日々の暮らしという、全ての事象が則っている法則つまり『循環運動』のひとつだ。呼吸もまたその同心円的に配置された循環運動の最小単位でありながらも、他の巡り巡る循環とひとつだけ大きく違う点は、

『人間が自分でそれをコントロール出来る』

ということだ。人は宇宙を滅ぼす事はおろか、季節をいじって桜の季節を長く愉しむとか、1日の長さを日によってコントロールするとかそんな事が出来るはずがない。だが、同じ法則上にある呼吸だけは長く短く深く浅くあるいは呼気に重点をといった具合にコントロールすることが出来る。それだけでまさしくチート級の核心アイテムが呼吸なのである。

変な例えを出すけど、かつてソビエト連邦は書記長という、議事録を記録するだけの係が全ての権力を掌握した。西武グループも各関連企業の株を押さえている小さな会社が支配していた。田中角栄の確立した派閥政治も同様。要するに全体に影響をもつ小さなコアをコントロールすることが出来るならば、その小さな力で全体をコントロール出来ると。

呼吸もそれと同じで、呼吸とはこの全宇宙が則っている法則の最小のコアであり、その呼吸がコントロールできるのだから、それを使って全宇宙と通じる事も可能だと。それがタントラヨガやカバラーなどの魔術の基本的な理屈だ。

ヨガに於いて呼吸があれほど重要だとされるのは別に生理学的な話や気分とのリンクの話からではない。そんな話ではなく、まさしくこの

「全宇宙の則る法則のコアであり、なおかつ人間にコントロール可能」

と言う一点においてなのだ。


ただその為には先ず、呼吸運動を2パターンのスイッチバック運動から円を描く循環運動に変えなければならない。
それが、呼吸そのものよりも呼気と吸気の切り替えの扱いが極めて重要な事の理由だ(※それとは逆に、呼気吸気の間の止息にフォーカスして死や止滅のコアにアプローチするやり方もあるけどそれはまた別の話)。

では具体的にどうするのかと言うと、息の吐ききりや吸いきりで喉や横隔膜に掛かる逆止弁的な筋肉の動きを最小限にして、なおかつその『折り返しのポイントの感覚』をズラしてしまえばいい。

吸いきる時には喉の弁(あくまでイメージの話だけど感覚としてはわかる筈)を最後にゆっくりと【吐きモード』のスタンバイ状態に切り替え、横隔膜も弛緩から収縮の為の力を出せるスタンバイの状態のところまでを吸気と考え、吐き切る時にはその逆をやる。そうして、生理的解剖学的な身体の切り替えポイントと意識の上での切り替えポイントをズラす。これをスムーズに回していくと呼吸は直線上のスイッチバック運動から緩やかな楕円を描くサイクル運動に変わる。アドバンスなタントラ系では、先程のSO-HUMのマントラをさらに深くズラし込む(図説参照)。こうする事によって呼吸と吸気の境目はほぼなくなり、呼吸は綺麗な円運動と化す。

さて、ずいぶん話が長く大きくなってしまったが、ヨガの呼吸の基本、完全呼吸とはこのようなものである。

この後、いよいよプラーナヤーマに踏み込むかとも思うけど、なんせプラーナヤーマは片鼻呼吸だけでもワークショップでやり方と解説で3時間近くは費やすような一筋縄ではいかないシロモノなので、その辺はゆっくりやっていきたい。とりあえずここからはみんな大好きヨーガスートラとか意外と人気ないクンダリニーヨーガとかバンダの話とか、もうちょいエッセイふうの事も書いていくつもりだ。乞うご期待。

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