
20代のころ渡せなかった花束を。
あれは20代前半だった。
わたしのケータイに母のお姉さん(以後、伯母と記す)から、着信があった。電話帳に登録してはいたが、やりとりをしたことは皆無。
伯母と母はとても仲がよく、長電話を頻繁にしていたものだから「伯母さん間違えてわたしにかけてきちゃったんだな」と鳴っているケータイをそばにいた母へそのままパスしてしまった。
…とだけ書くと嘘になるから本心を記す。
本当は、ケータイに伯母の名前が表示されたのを見た瞬間ビビった。会う機会があっても一対一になったことはないし、なるのを避けてきたからだ。それは伯母に限らず、出来る限り他人…というか「人間」と接触したくなかったのだ、あのころは。
加えて伯母は、自分にも他人にも厳しい。常に背筋はしゃんと伸びており、タッタと競歩のように歩く。「隙を見せない」その姿勢が幼いころの自分には怖い人として映った。ちょっとしたことでも叱られそうでビクビクしていた。
歳を重ねていくほどに、伯母の印象は変わっていったが「自分にも他人にも厳しい」の印象は変わらぬまま。成人してから母の田舎へ行った際に優しく話しかけてもらったものの、やはり一対一になるのをわたしは恐れた。
人見知りなのは誰が見てもわかるような子どもだったが、実は「人が怖い」ことや「極度の緊張と不安に襲われる」事実を「恥」や「精神の弱さ」なのだと胸の内に隠していた20代前半。
伯母からの着信にビビり母にパスしたケータイだったが、そのあとに再びわたしのケータイが鳴った。相手は伯母だった。
さすがに母と間違えてかけているわけではなさそうだと覚り、恐る恐るわたしは電話に出たのだと思う。なぜ「思う」なのかといえば、ビビった記憶が強すぎてどのように自分が対応したのかをまったく覚えていないからである。
「お母さんの誕生日に、ケーキと花束をあげてほしい」
電話越しに伯母から伝えられたのは、頼み事だった。あくまで伯母からではなく、娘のわたしからのプレゼントとして渡してほしいと。
「お母さんを労ってあげて」
正確な言葉はうろ覚えだが、そのようなニュアンスの言葉も伝えられた。
わたしが高校生のときから20代前半にかけ、母は長期的に田舎へ帰ることが度々あった。闘病していた伯母夫婦に付き添うためだ。伯母にとっては母が、母にとっては伯母がかけがえのない存在だったのだろう。それだけではなく、伯母が我が家全体を支え続けてくれていた大恩人であることもわたしは知っていた。
しかし母の誕生日当日、わたしはデパートでケーキだけを購入し母に手渡した。花束は買えなかった。
ケーキはショーケースを指を差し「これをください」と言えばなんとかなる。が、花束はそうはいかない。店員に何を訊かれ何をどう答えていけばよいのか。想像の段階で逃亡したくなった。
映画のチケット購入方法も、より詳細な情報を求めYahoo知恵袋に頼っていた当時。花屋で花を購入した経験がなかった自分は、店の前を横切ることしかできなかったのである。
花束を買えなかった。
あのときの懺悔を伯母にしていない。していないまま、伯母は他界してしまった。
消化器系難病の手術後、新薬投与により寛解期を迎えるに至ったわたしは、伯母が他界した翌年にはじめて就職する。それからは、ほぼ毎年母の誕生日にはプレゼントを渡すようになった。
だけど、花束をプレゼントしよう考えついた試しがなかったのはなぜだろう。
✽✽✽✽✽
つい先日。母の誕生日。
わたしは花屋を訪れた。
数年前から行ってみたい、と思っていた「コトリ花店」さんへ。
悲しいかな盛大な花束をプレゼントできる余裕がないため、店主様に説明とアドバイスをいただきながら三輪の花を選び包んでもらった。
お店を出て手にした花を眺めていたら、ふと花束を渡せなかったあの日や伯母から電話がかかってきた日のことが頭をよぎった。
花屋の前を横切ることしか出来なかったのに、今では「行きたい花屋さん」が自分のなかにあるなんて不思議な話だなと感じた。
店員に話しかけられるのも話しかけるのもどうにか回避できないものか!と困惑していたのに、今では出向いた先で誰かしらと言葉を交わせたら嬉しいと感じる。
遠回りばかりしているけれど、時は確実に経ったと心境の変化を目の当たりにして実感する。遠回りの途中であっても。ゴールを定めていなくても。立ち止まったまま生きてきたわけではなさそうだ、と。
伯母は花と縁のある人だった。
故人の話だから詳細は言えないが、とにかく縁のある人だったのだ。
無邪気に「花の名前を教えてほしい」と言える姪になれたらよかったな…。
伯母さん。電話をくれたあの日からだいぶ遅れてしまったけれど、母の誕生日にお花をプレゼントしました。細やかではありますが、「誕生日おめでとう」と手渡しましたよ。

花言葉を調べたら「母性愛」でした。