休職中の「居場所」探し
私の会社では、水曜日と日曜日がいわゆる公休日でした。その感覚は、休職中も体に染み付いていました。
休職中、日曜日の昼間にスーパーで買い物をしていても、特に周りの視線は気になりません。それは世の中一般の平日でもある水曜日も同じで、誰かに見られている感じはありませんでした。
しかし、これが水曜や日曜以外の「私にとっての平日」になると、途端に人の視線が気になるのです。「なんでこの人、こんな時間に買い物しているんだろう?」と、見られているように感じてしまうのです。
さらに、ショッピングセンターのフードコートで一人で食事をしていると、「どうしてこの人は平日にここで働きもせず、一人で食事をしているんだろう?」と周囲が思っているような気がしてしまいます。誰にもそんなことは言われていないし、実際には誰も私のことなんか気にしていないはずなのに、心の中では「私はここにいるべきではない」という感覚が拭えなくなっていました。
スーパーでも、ショッピングセンターでも、カフェでも、どこもかしこも、自分の居場所ではないように感じてしまい、居心地の悪さが心に巣食ってしまっていたのです。
他人の視線は自分自身が作り出すもの
休職中、私はできるだけ人と会って話をするようにしていました。あるとき昔の職場の先輩と会う約束をしたところ、先輩は私を明治神宮に連れて行ってくれました。実は、先輩は私と会う場所として明治神宮か競馬場を考えていたそうです。その理由はこうでした。
「さちマロの目の前にいる人たちは、誰もさちマロのことを気にしていない。そのことを実感するには、『他者がそれぞれの幸せな時間を楽しんでいる場所』か、『他者が自分の夢中になれるものに没頭している場所』が良い。たとえば、前者が明治神宮で、後者が競馬場だよ」と。
確かにその通りでした。私は「自分の居場所がない」と感じ、休職している身として本来の「私にとっての出勤日」である土曜日に、明治神宮内の公園にいることに後ろめたさがありました。でも、その日はなぜか居心地が悪くない。周りの人たちが私を見ている感じが全くしなかったのです。
芝生の上では、子どもが無邪気に遊び、それを見守る両親が笑顔で寄り添い、若い青年が帽子を顔に乗せて昼寝をし、カップルがピクニックを楽しんでいる。そこには老若男女さまざまな人がいましたが、誰も私のことなんて気にしていない。みんなが自分の時間を楽しみ、自分の世界に浸っているだけでした。
「どうしてあなたはこんなところにいるの?」という声は他人が発しているものではなく、私自身が勝手に作り出したものでした。先輩は私を明治神宮に連れ出すことで、このことを心から気づかせてくれたのです。
もう一つの場所、競馬場ーーー行くことのないまま、私は適応障害から回復することができましたが、もし同じような気持ちになる時が来た暁には、競馬場に身を置いてみたいと思います。