本の読み方の変遷
中学から高校にかけて読んだ本の数を、これからの人生で抜くことはできないかもしれない。
時間があったこと、読後に書く読書カードが国語の成績に加味されること、そもそも本が好きであったこと。さまざまな理由から、とにかく読みまくった。
今はついついスマホを握り、あまり頭に入ってこない情報を眺めて時間を無駄に過ごしてしまっている。
そうだ、あの頃のように本を読もう!
定期的にその気持ちを思い出しては、ときどき新しい本を購入するが、それらは積み重なっていくばかり。大人になって、すっかり自分に対しての言い訳が上手になってしまった。
あの頃読んだ本は確かに私の「身になった」実感がある。文章を読むことでさまざまなものを身につけられたと思う。
今同じだけの時間を読書にかけたとしても、同じだけのものを身につけられるか、というとおそらくできない。
あの頃と今の私が決定的に違うこと、それは本を選ぶようになったことだ。
中高生の頃、一冊の本当を読み終わり、気に入ったら同じ作者の本はとにかく読みまくった。文豪しかり、流行りの小説家しかり。逆に最後まで読めなかった本の作者は徹底して避けた。ゆえに、私の読書歴の偏りは大きい。
そして、一人の作者にのめり込んで、その著作ばかりを読むことでその作者の本は面白い、と思い込んでいた。
ある作者の著作に傾倒していたころ、既刊は読破し、新刊は欠かさず書店で予約していた。今でも本棚に並んでいるものもある。
しかし、それほど好きだったその作者の新刊を、今は全く読まなくなってしまった。理由は簡単で、面白くなくなってしまったのである。
私の好みが変わったのも確かだが、その作者が段々と遅筆になり、作風もなんとなく変わりつつあることに薄々気づいていた。
そして決定的なことが起こった。やっと新刊が出たと思ったら、主人公が明らかに初期の設定と異なる台詞を吐いたのである。
そのときの気持ちを上手く書き表すことは、できない。なんというか、私にとっては後世に残すべき名作だと思っていた作品を、作者自身はそう思っていなかったのだと、裏切られたような思いになったのである。
もちろん、私の一方的な思いであることは承知しているが、学生の私には衝撃的な出来事であった。
そして百年の恋が冷めるのと同時に、私の目も覚めた。当たり前のことなのだと。
作者も人間、名作ばかりを書き続けられることはなく、またある人にとっての名作が私にとってもそうであるとは限らないのだと。
結果、本を読む量はかなり減った。読みたい本を見つけることが難しくなってしまったのである。
裏切られることが怖くなったというわけではないが、一冊が面白かったとしても、次もそうであるとはいえない。手当たり次第買って読む、そのために使う時間とお金は、大学生になり一人暮らしを始めた私には少なかった。
あの衝撃を受けた小説はその数年後に完結し、今も書店で見かけるが、私の手元にはもうない。最後まで読みたかった気持ちと、あの話は私にとってはあの巻で完結したのだという気持ちが今もないまぜになっている。
そして、何の疑念もなく本に手をとり読みまくっていたあの頃の方が、もしかしたら幸せだったのかもしれないとも思ったりもするのである。