〖エッセイ〗「焼肉【やぶ】の話。」
「いらっしゃいませっ!」「また、どうぞ!」
目を瞑ると、どこからかそんな声が今も聞こえてくるんでは、ないかと思ってしまう。
小さな町の、小さな焼肉屋。
母方の祖父母は、40年以上に渡り焼肉屋を営んできた。店名は「やぶ」だった。
鉄板で焼く分厚いお肉と、冬場にやるおでんが好評だった。おでんには、秘伝のネギダレを掛けて提供していた。
お通しは、決まって湯豆腐。
湯豆腐にも、ネギダレを掛けるスタイルだった。
昼間は普通に会社員として働き、夜に「やぶ」を開く。そんな生活を40年も続けたのだから、本当に頭の下がる思いである。
そんな祖父母も、今では天国にいる。
祖父は、2年前の3月、享年90歳。
祖母は、今年の1月、享年92歳。
2人とも長生きをしてくれた。
祖父は、肺炎に罹り「余命は1ヶ月程でしょう」と言われていて、最期は叔父が自宅で祖父を看取りたいと、叔父の実家へ連れて来ることになった。
叔父から「最期になるかもしれないから、まだ喋れるうちに、会いに来てやってくれ。」と電話があった。
その頃、私は適応障害になったばかりでずっと体調が優れなかった。通っている精神科に相談し頓服を出して貰って会いに行く事にした。
医師の話では、「葬儀になり、例えどんなに行きたくても今の状態で決して無理をしてはいけない。行かないという選択肢も視野に入れてください。」と言われた。
数日後、家族全員で祖父に会いに行った。
呼吸が苦しそうである。
「おじいちゃん、来たよ。○○(曾孫)も連れて来たよ。」と話しかけた。
すると、少しだけ祖父が苦しそうに話した。
「○○(曾孫)ちゃん。頑張れよ…。頑張るんだぞ…。」たったそれだけ言ってくれた。
人というのは、不思議なもので、「自分より子供。子供より孫。孫よりもっと曾孫。が可愛くて、仕方ない生き物。」なのだなぁと思った。
余命宣告をされてから、作った詩が3つあるので、良かったら、目を通して欲しい。↓↓↓
「冬は勇みて」
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「弥生の月は待っている」
https://note.com/preview/n8cc0f1306f04?prev_access_key=c4671f7d1d0617d8be321c415a651f1c
「愛しい蕾」
https://note.com/preview/neb4f7e693761?prev_access_key=1f0f1381c9fcf01e6f893973b9f6c285
祖父に会いに行ってから、数週間後の3月9日の夜。祖父は静かに息を引き取った。
医師から釘を刺されていた私の体調。
それでも、薬を飲みながら通夜、火葬、葬儀には全て出席した。
特に通夜は印象的であった。
祖父は生前、「書道」が趣味で気に入った言葉を色紙に何枚もしたためていた。
きっと書くことで、若くして亡くした娘への辛い気持ちを紛らわしていたのではないか。私はそう感じる。自分も言葉にすがって生きているからである。
祖父は、母がお針が得意で着物を作る人だった為、白装束ではなく、母が縫った渋いグレーの着物を着ていた。
棺にはたくさんの祖父が書いた色紙が入れられた。まるで、言葉に囲まれながらあの世へ行くようで…。とても素敵だった。
祖父の死後、家には「知は力なり」と言う書を飾った。私はショックから体調を崩し3日間寝込んでしまった。
娘がある日、テストの話をしながら、ボソッと言った。「知は、力なりだよ。…いい点を取り続けるためには。」と言った。
私はこの言葉を飾って良かったなと思った。
娘の心には確かに響いている言葉だ。
それから一年程経ったある日、主人から「老人ホームに入ってるおばあちゃんにたまには会いに行ってやれよ。何があるかわからない歳なんだぞ。」と言われた。
私はずっと逃げて来たのだ。
認知症が進み、老人ホームへ入った祖母に会う事から。
それは、あの元気だった祖母とは違う、何も分からなくなってしまった祖母に会うのが怖かったからだ。
でも数日後。私は娘を連れてホームへ会いに行った。
すると、車椅子に乗った祖母が近づいて来た。
「HANAだよ。おばあちゃん分かる?○○(曾孫)も一緒に来たよ~。」と話しかけた。
すると祖母が「HANAさん?誰だったかな?私の孫かい…?○○ちゃんて言うの?私の曾孫?」と、やっぱり分からなくなっていた。
いつも。母が亡くなってから、私の祖母が救いだった。私達は、母の居なくなった淋しさを埋めるように、2人で色んな所へ行き、2人で色んな話をして生きてきた。
娘が生まれてからは、○○ちゃん、○○ちゃんと、相当可愛がってくれた。
そんな祖母の記憶に私達はもう居なかった。
それでも祖母は私達の手を握り、目に涙を浮かべて「来てくれてありがとう。嬉しい。嬉しい…。」と言ってくれた。
私は居たたまれなかったが、少し話をして「また、来るからね。」と言って祖母の手を握り返した。
祖母とは、それが最期の別れになった。
コロナの影響もあったが、私はやはり、現実を受け止めきれず、祖母になかなか会いに行けなかった。弱い自分が今でも許せない…。
その一年半後、1月の末に祖母は老人ホームで息を引き取った。コロナの関係で面会は叶わなかった。
通夜に行くと今度は、亡き母の縫った山吹色の着物を来た祖母が綺麗な顔で眠っていた。
棺に色々なものを納めていく。
係りの人が「次は六文銭。三途の川の渡し賃といわれています。とても大切なものです。こちらはどなたか女性の方にお願いしたいです。」
と言った時、即座に娘が動いた。
私は嬉しかった。大切なお金を曾孫に持たせて貰えて幸せだろうなと思った。
私は棺に、今までの感謝を綴った手紙を入れさせて貰った。
一連の儀式が滞りなく進み、叔父が通夜の挨拶を始めた。
「本日はお忙しい中、お集まり頂きましてありがとうございました。親父が亡くなってから、約2年が経った訳ですが…この機会に実家や店をどうしたか、お話させてください。
……まず実家は売りに出そうと思い、妻と2人で片付けをしてました。大きな家具などは専門の業者さんに頼んで片付けをすることになりまして。まぁ、業者さんを呼んだんですよ。
そうしましたら、その業者の方がたまたま、若い頃、「やぶ」へ食べに来たことがあると話してくれまして…。
その人がある日、仕事が終わって「やぶ」の前を通ったら、焼肉のいい匂いがして。どうしても肉が食べたくなったそうで。
でもポケットには500円玉一枚しかない。それでも居ても立ってもいられず、暖簾をくぐったと。
そうしたら、父が「いいよ。」と言って肉を切り、母が暖かいご飯と味噌汁まで用意してくれて、とても嬉しかったと。
……その話を聞いて…2人は…なんだかんだ、いい商売してたんだなって…思い…ました😢
そうして、しばらく売りに出したら家付きで店舗も買い取り『焼肉屋をやりたい』と言ってくれる人が現れたので、話を聞いてみました。
話してみると、やはり小さい頃からよく「やぶ」に食べに来てくれていたお客さんだったようで…。
「やぶ」を気に入り、焼肉屋をやりたいと申し出てくれた事に縁を感じ、その方に、売りに出す事に決めました。
ざっくりと話すと、この2年そんな事がありました…😢
皆さん、明日も火葬、葬儀と続きます。
明日もよろしくお願い致します。」
と、叔父は涙ながらに話してくれた。
私も思わず泣いてしまった。
「やぶ」は古くて、ちょっと汚い店だったけど、常連さんや、月一回は必ず食べにくるグループの方々もいた。
私もずっとあのお肉とあの自家製のタレで育った。
私だけじゃない。
母も、叔父も、娘も、みんなみんな、あの店と共に生きてきた。
先日、ようやく、新しく焼肉屋をしてくださってる方のお店に家族で行ってきた。
少し綺麗にリフォームされていたが、面影はそのままだった。懐かしい空間。
「あの…私、前にこの店をやっていた『やぶ』の孫でして。応援しています。どうか、末長く繁盛なされますよう、願っています。」
と、店長さんに挨拶をした。
すると、色々話してくれた。
「そうだったんですか。ありがとうございます。実は『やぶ』は、子供の頃から来ていた思い出のお店だったんです。それが売りに出されているのを知ってやろうと決意しました。
あの、僕の母が『やぶ』の長女やよいさんと同級生でして…そのお子さんですか?」
私は驚いた。
ここまで共通点があったとは。
「はい。やよいの娘です。」
「母が言ってました。とても綺麗な人だったって。でも若くして亡くなられたそうで…。」
店長さんの言葉に、胸が詰まった。
(お母さん、あなたが亡くなって30年以上経つのに、まだあなたの事を語る人がいるよ。)
心の中でそう思った。
こうして、「焼肉やぶ」は新しい人の元で、形を変えて新しくスタートしている。
本当によく働いた2人だった。
そんな毎日の積み重ねがたくさんの人の心の中に「焼肉やぶ」として思い出に残っている。
一生懸命、働く姿はきっと、誰しも無駄じゃない。良いことばかりじゃないけれど、積み重ねて来た時間が素晴らしい景色に変わることを、私は亡くなってもなおも、祖父母に教えられた。
きっと、天国でも2人は「焼肉やぶ」やってるんじゃないかな。みんなが集まれるように。
そんな気がしている。
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