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〖エッセイ〗父親との事。

母が他界してから、父は変わった。
当時7歳だった私は、母の死後、叔母の養女になるという話も出たそうだが、父は頑なに拒否したそうだ。

しかし、子供の頃、父親と過ごした記憶はほとんど無い。
祖父母に育てられた。

父は、仕事をしてから、友達との遊びやパブやバーに行っていてほとんど家には帰って来なかった。大手と呼ばれる会社を退職し、職を転々としていた。
祖母の話では、友達の借金をかぶったんじゃないかと言っていて、借金があるようだった。

たまに、朝私が目を覚ますと、机の上にポンッとコンビニのパンが置いてあることがあった。
それが、父の見せる最大限の愛情だったのかもしれない。

中学三年の時、私は寂しさから、「母方の祖母の家で暮らしたい。」と父に言った事がある。

これは、私の感性の話だが、父と母から生まれた私の半分は母親で出来ている。
だから、無性に母親の存在が恋しくなったのだ。その為、母の母である祖母の側に居たくなったのである。

父親は反対した。驚いたが、涙を流しながら、行かないでくれと言っていた。
私は自室に戻って泣いた。

2時間程経って父が私の部屋へ来た。
「…ドライブに行かないか。」
そう言った。

私達はなにをしに行く訳でもなく、少し遠くの街まで車を走らせた。
得にしゃべる事もなく無言の車内。

折り返した帰り道、ラジオから、ウルフルズの
「笑えれば」が流れて来たのを覚えている。

〖とにかく笑えれば とにかく笑えれば
情けない帰り道 はははと笑えれば…〗

という歌詞だった。

情けない帰り道、その歌を、聞いてまた泣きそうになった。

不器用な父がドライブに誘ってくれたのは嬉しかった。
こうして祖母の家に行くことは諦めた。

高校にも無事入学し楽しい学校生活を送っていた。高校一年の三者懇談の日。父親から「お金がないから、高校卒業したら、働いて欲しい。」と言われた。

大した夢も無かった私は、「分かった。」とだけ返事をした。
(あぁ、私は夢を見ることも、やりたい事を見つける事も出来ないのか…。)
そう思ったのを覚えている。

しかし、時は経ち高校三年の冬。
私は本当に家を出る事になる。

理由は、車の免許を取る為のお金が用意出来ないと、突然父親から言われた事が原因だった。
私は怒りしかなかった。

お金が無いことが腹立たしいのではなかった。
相談、コミュニケーションを怠った父に腹が立ったのだ。

もう、就職も決まっていて3月までに免許を取るように言われていた。
自動車学校にも通い始めていた。 
早く相談してくれさえすれば、バイトでもしてお金を貯めれたのに…と思った。

結局、就職先には事情を話し、働きながら免許を取った。お金も半分は親がなんとかだし、後の半分は自分で払った。

そんな、事があり高校三年の冬、私は母方の祖母の家に居させて貰う事にして、家には帰らなかった。

それから、今に至るまで家に帰った事はない。

高校を卒業してすぐ、私は某組合に就職し、金融の窓口に座っていた。
仕事は大変だった。

そんな中、初めてのボーナスの日が来た。
私は嬉しくて、祖母に「新しい掃除機を買ってあげるね。いつもありがとう。」と1番に感謝した。

その夜である。
父親から半年ぶりに、着信があった。
嫌な気持ちで出る。それでも、私は「仕事はどうだ?」とか「元気なのか?」と言ってくれる様な気がしていた。

しかし、そんな思いは打ちくだかられた。
「…もしもし。」私が電話に出る。
「本当に申し訳ないんだけど…3万円程貸してくれないか…?」そう言われた。

私は怒った。
「久し振りに電話を掛けて来た内容がそれなの?信じられない。…お父さん、今日、私、初めてボーナスを貰ったんだよ。必死に働いて。お金は貸さない。自分でなんとかして!」

そう言って電話を切った。

父とはそれきりだった。
私は19の時、6歳上の男性と婚約した。
その時久し振りに、父に報告するため、食事をした。

その時の父は、穏やかだった。
結婚も喜んでくれた。
きっと、親という肩の荷が少し降りた様に感じたのだろう。

そして私は20歳で結婚し、22歳の時、娘を出産した。

出産して、すぐに病院にも父は来てくれた。
すごく嬉しそうな顔をしていた。

孫が生まれてからの父は変わった。
月に一回は食事をご馳走してくれるようになったし、孫の面倒も見てくれた。

ある時、「娘にしてやれなかったことを、○○(孫)にはしてやるんだ。」と笑っていた。

自分も親になり、父の変わっていく姿を見て憎んでさえいた父を許そうと思った。

それから父との関係は良好だった。

しかし、私を「うつ病」という病魔が襲った。
父は私がODをした時、ずっと付いていてくれた。

病気がひどく1人の時に「手首を切りました」とLINEをしたら、真夜中なのに、3分で家に来てくれたりもした。
聞けば私の事が心配で、夜も眠れず、私の住むアパートの近くのパチンコ屋の駐車場にずっといた、と言う。

そして、泣きじゃくる私を抱き締めて、「バカな事するな。お父さん、HANAが居なくなったら…どうすればいいんだ」と泣いた。

父が泣いた所を見たのは3回。
母が亡くなった時。
私が家出したいと言った時。
そして、手首を切った時。

父はそれからも、ずっと精神科の送迎や買い物を手伝ってくれたり、私の精神が不安定な時は必ずすぐに家に来てくれる。 

「ごめんなさい…」と毎回私が言うと、
「謝ることはなんにもないよ」と言ってくれる。

世界で1番優しい父親になった。
子供の時よりも、今の方がずっと私は父に甘えていると思う。

そんな今の関係が1番良好だ。
生まれ代わっても。
私は父と母の間にもう一度生まれたい。

父の日に。(返信の漢字間違ってるけどね(笑))


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