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アーレント『活動的生』研究ノート(4/6)

会社員のための政治哲学?

アーレントは古代ポリス世界に定位しながら、そこからの偏差(逸脱性)によって現代社会を「上からアーレント」的に裁断していくわけですが、

これまで見てきたように、古代ギリシャと現代世界では人口も領土もスケール的に明らかに違いますし、アーレントの話は現代ではとても通用しない議論だろうと反論したくもなる。

その一方で、労働、制作、行為というアーレントの区分は実に魅力的で、人間の活動全般について、一定の見通しというか、よき補助線を与えてくれそうな気配もある。アーレントの議論を現代人がどう受け止め、どう解釈していけばより「生産的」なのか、モヤモヤ考えながらずっと読んできたわけですが、

一つの見方として、アーレントの活動論を、いわゆる政治ないし公共的活動の文脈で解釈するのではなく、

会社員という、現代で最もスタンダードな生活様式に当てはめて考えていくと色々生産的かもしれません。

たとえば、古代の市民は奴隷に労働をさせて、自分自身は公的領域に出て言論など政治的〈行為〉に励んだという話を、

現代だったら、会社の正社員が非正規労働やアルバイトに労働をさせて、自分自身は本社で会議やプレゼンなど戦略的な〈行為〉に励んでいるみたいな構図に読み替える。

規模的にも生活格差的にも、古代のポリス市民は、現代のいわゆる市民、国民と比較すべきではなく、企業や公共団体の「正社員」に相当させ、また市民によって労働させられていた奴隷については、現代の非正規労働者やアルバイト、さらにはギグワーカーに相当させると、見通しがよくなる。

アーレントが言っている〈行為〉は、一言でいえば政治のことを言っていますし、公的領域で共通の利害を調整し、意思決定をする、そのプロセスに参加すること全体に対して、彼女は〈行為〉という概念を当てているわけですが、

政治という概念は、別に、首相が政治資金パーティーの責任をとって辞めるとか、衆議院を解散するとか、政権交代を実現するためにみなさん投票に行きましょうとか、そういう「正統的」な政治の風景に対してだけとっておかれたものでは当然ないわけで、

およそ人が人に対して言葉(約束)を通じて影響を与え、与えられる…その対人的メカニズムないしテクノロジー全般について「政治」という言葉を使うなら、アーレントの行為論の射程もより大きく見積もることができます。

そういえば、哲学者のホモ・ネーモ氏も、現代の企業活動の大半は実は経済活動ではなく政治活動だと喝破していますね。

正社員が、会議に次ぐ会議で「人に見られ聞かれる」経験を繰り返し、マーケティングの戦略を練って市場のゼロサムゲームを戦い、補助金確保のため数字の印象操作(改ざん?)に奔走し、コンサル(軍師)を雇って他社のネガキャンをし・・・あるいは、融和と交流を促進するためにレクリエーションや福利厚生を企画したり、社内の種々諸々のハラスメントをSNSで告発したり、文書の様式やホッチキスの留め方に至るまで何のためかわからない無駄な仕事を事細かく指導されたり・・・という、この一連の風景は、実は労働ではなく政治なのである、と。

現代は、アーレントもいうように、たしかに労働が賛美されるようになった時代なわけですが、労働ないし経済活動といういわば「通奏低音」のもと、相変わらず〈行為〉の優位性、支配力が効いているのも事実なわけです。行為、制作、労働の図式が、現代社会でも依然として有効である、と。

公的領域と私的領域の区別も、別に会社と自宅の区別に対応していると考えても問題はないのではないか。私的領域たる自宅、家庭では、家電を駆使して労働を節約し、ウーバーやアマゾンで手軽に物資を調達する。生命維持のための労働の直接的なインターフェースは、相変わらず私的領域の周囲をぐるぐる回っているわけです。

このようにざっくり考えてみると、アーレントの『活動的生』、又の名で『人間の条件』は、政治学や公共政策の文脈ではなく、むしろ会社員を中心に、働くすべての人間が、めいめいの労働環境に引き寄せて読解すべき代物かもしれないっすね。


〈行為〉の場所指定

この辺の話をしながら思い出しましたが、政治思想家のアレクシ・ド・トクヴィルは、19世紀アメリカの民主政を観察しながら、アメリカで民主主義がうまくいっているのは、国家と個人との間の中間領域が分厚いからだというようなことを言っていたわけです。

民主主義は、国民国家の水準で語るだけじゃなく、国家とは別の水準、別の原理で動くアソシエーション位相の観点から語ることもあるいは必要かもしれない。

アーレントは、近代社会が必然的に全体主義に行き着くという批判的観点をもっているようですが、古代ポリスの規模感を考慮するなら、むしろ、そういう全体主義的国家とは別の水準で動く民間の力学を強調すべきだったのではないか。

国家が民主主義的でないことを批判するのではなく、そういう国家に対抗する草の根的ながらも十分に組織力のある民主主義の形がないことを批判するべきだったのではないか。

そして、実際には、そういう民主主義の形が「ない」かといえばそんなことはないわけで、上に述べた会社、あるいは教会、各種NPOなど、〈行為〉の実践型、組織体は存在しているわけです。十分に力ももっている。

古代ポリスに引き寄せていうなら、「小アジアのペルシャ専制国家に対抗するギリシャ民主制ポリス」という構図に、「原理的に全体主義や専制主義の傾向を孕んでいる国家に対抗する民間の中間共同体」という構図を重ね合わせても面白かったような気もする。

アーレントは現代社会が古代ギリシャ的でないことに批判的なわけですが、むしろそれは、古代でいえばヘレネスのポリスじゃなくてバルバロイの専制国家に比すべきものじゃないか。古代ギリシャを理想化し、そこからいきなり現代の国家を批判するより、こちらの線の方がずっと生産性の高い議論ができた可能性もあると。

バルバロイだろうとなんだろうと、専制主義的なもの、官僚主義的なものはなんだかんだ「強い」ので、現代ではみんなその支配下に甘んじてはいるけど、それでもそれに対抗して少しでも人間的な秩序を身近に作り上げていくという努力は必要だし、実際できるわけですよ。その機能を、アーレントは国家じゃなくて民間に求めることもできた。古代ポリスはむしろ会社やNPOといった民間の組織体に比すべきだったのではないかと。


分業のせいで〈制作〉は〈労働〉へ一本化

さて、アーレントは、産業革命による機械化よりも、それに先立って確立された分業体制こそ、世界の世界性を毀損し、物の持続性が奪われ、〈制作〉が〈労働〉にいわば一本化され、かくして現代が空前の消費社会となったという洞察を展開しています。

この、豊かさの呪いに対面するための手段とは、使用対象物を、あたかもそれが消費財であるかのように取り扱うこと、ないしは、使用を総じて消費に変質させてしまうこと、ここに存する。(p.148)

使用と消尽の区別、つまり使用対象物が相対的に長持ちするのに対して消費財は現われてはたちまち消えてゆくという違いが、消えつつあること、もしくは無意味と化していること、を意味する。(p.150)

『活動的生』

1958年の時点で、彼女自身ニューヨークから世界を見つめていたとはいえ、資本主義社会をこれほどの解像度で言語化できていたのは、やはり敬服すべきところがあります。

分業で、もはや職人の制作は無意味になるし(分業の方が安くてかつ豊富に商品を手に入れられるから)、職人さんが作ってくれたものを長く大事に使うという文脈も希薄になる。大量生産、大量展示、大量消費、大量廃棄の時代になっていったと。

もっとも、分業によって組織化された商品社会とは、世界の自然化の結果であり、あたかも木になるリンゴを随意に掴んでかじって暮らしていくように、安価で多様な商品がいたるところにあってすぐに入手可能な状態の具現でもある。それはエデンの園の原初的風景や、狩猟採集民的というか、遊動的な原始風景とも重なるものでしょう。人間は本当に人間的世界を守りたかったのか、それとも、この世界をむしろある種の仕方で憎んでもいて、抑圧されざる生のエネルギーを謳歌できた原初の遊動社会(動物世界)に戻れるものなら戻りたいと常に感じてきたのか、という問いは残るでしょう。


畜群道徳の奴隷王朝

それにしても、アーレントにおいて一貫している、現代を古代からの堕落として解釈する姿勢というのは、ちょっとニーチェっぽいかもですね。

近代というのは、資本主義とともに畜群の道徳が支配的になった時代なんだと。マムルーク朝ではないですが、現代の民主主義社会はおしなべて奴隷王朝的といえる。

貴族的な徳に定位しつつなされるこのような現代社会批判は、それ自体説得的で、一定の仕方で本質を掴んでいるとは思います。ただ、ややもすると厨二病と表裏一体だという印象も否めない。

アーレントがこのような消費社会批判をして、そしてそれと同様の批判がその後各種各様に展開され(本当にたくさんあります)、で、現在どうなってるの?その「的確」な批判で、世の中は現代社会の過ちに気づいて「更生」したの?っていうと、全然そんなことはないわけです。

消費社会、一切の活動を労働化する傾向は、進む一方なわけですよ。そのような批判をする人たち自身も、その作法自体が一つの文化になってきてますし、『反逆の神話』ではないですが、そのような言説自体も資本主義自体の中に居心地よく収まってしまっているわけです。ただの言葉遊びだという感慨を否定できないのも事実だと。


金銭獲得術について

アーレントは「お金を稼ぐ方法」という点についても、古代と現代では捉え方に大きな相違があると指摘します。

医術の目的が健康であるように、金銭獲得術の目的は、生計の心配からの自由なのである。金銭獲得術は、労働のあり方の一種であるどころか、その反対に、労働しないですますためには行使できなければならないものだった。

『活動的生』p.154

労働しないで済むために金銭を獲得する。まさに不労所得という言葉で表現されるべき事柄で、現代ではNISAやFIREがその具体的な標語となっている。

現代人は、金を稼いで何がしたいかというと、もっといい生活がしたい、もっと旅行がしたい、高級な車を買いたい・・・といったところになるわけですが、それらは結局、プライベートな私的領域の充実ということに帰着する。要は、消費者として自己実現したいわけです。しかし、アーレントによれば、古代人はそうではなかった。金がそこそこあればあくせく働かなくて済む。自己利益を私的に追求するよりも、余った時間で公的な事柄に携わり、〈行為〉の卓越性を競って、自己実現をすることができる。あるいは逆に、哲学や信仰のような「観想的生活」を送って、自己完成に励む。金を稼いで消費者として「自己完成」を目指す現代のあり方とは対照的ですね。

アーレントは、富者と公的活動について、このようにも述べていました。

富者の生計は安定していると或る程度信頼することができたし、富者の生業はあくせくしておらず、したがって富者は公共の事柄にたずさわる自由があったからなのである。

『活動的生』p.78-79

こうした記述を読むと、たとえば現代のアメリカ政治を想起したりもします。ドナルド・トランプが、自身公的な事柄に関わらなくても済むぐらい超大金持ちなのに大統領になろうとしたり、またその中で、スーパーリッチな資産家や名望家を好んで登用しようとしたりするあたり、現代の資本主義において、労働から解放されて、アーレントのいうような純粋な意味で〈行為〉に携われる人って、もう資産家や投資家くらいしかいないんじゃなかろうか? 

上の引用でもあるように、ちょっとやそっとの札束では靡かないくらい莫大な資産のある富裕な自由市民は、生計の心配がないからこそ比較的公正な政治が期待できるという側面はあるんですよね。

アーレントは金銭獲得術に言及することで、あらためて現代の労働主義的傾向を確認してるけど、資本主義(キャピタリズムは複利主義とも訳せる)社会では、「獲得した金銭をさらに複利で増やす術」っていうのがあるわけですよ。これをうまくやれば、働かずして生計の心配から解放される。いま、FIREとかNISAなどと言われているのもその一環である。

もちろんそんな人は一部なわけですが、一部だとしてもしっかり(ひっそり)と存在してるわけで、こういう人たちはまだアーレントのいう純然たる意味での〈行為〉に携われるといえるでしょう(もちろん、活動的生活ではなく観想的生活を選ぶ人もいます)。


アーレントへの悪口

アーレントは現代の消費社会を論じるに至って、

労働する動物が公共性を乗っ取ってそこに自分の尺度をあてがうかぎり、本来の意味での公的領域は存在しえず、私的なものがこれ見よがしに公然とまかり通るようになるだけでしかない

『活動的生』p.159

という吐き捨てるような物言いをするわけですが、

やっぱり、「本来の」という言葉遣いが表出するくらい、アーレントの本来主義的気分は明らかでしょうね。古代ギリシャを「本来的なもの」と勝手に設定したあんたが自分で盛り上がってるだけでしょうが!とツッコミたくもなる。


ところで、アーレントは160ページで、「世界とは、人間が自分自身のために地上に建てた家である」とか「人間らしい生として大地の上に住むことができるための条件・・」とか、ハイデガーの「世界内存在」の概念を念頭においているかのような議論を展開しています。なるほど、彼女のいう「世界」は、ハイデガー的なニュアンスで理解しておくのもありなのか。

しかしそうなると、家に郷愁や居場所を見出せるのはやはり主人だけだとも思われてくる。以前から感じていることですが、これは、「人間なんてもっと少ない方がいいのよ!」と言わんばかりの議論ではないか。

あと、終始アーレントの文体から観察できることですが、なんか、強調構文というか、最上級的な表現がやたら多いんですよね。「決して」「でしかない」 「〜してはじめて」みたいな。そういうのが多用されるときは基本的に書き手が無理していると見ていい。また、「人間の作った家の持続性と永続性というのは、その家の住人たちの寿命と真っ向から対立するほどである」(p.161)とか書いちゃうあたり、「反動思想家」と評価されても仕方ない感じもある。


で、彼女の「家の比喩」を肯定するにしても、その世界の中で主導権を握るのはやっぱり成年男性なんだと思うんですけどね。アーレントはここまでであまり言及してない気がしますけど、男性市民が公的領域に出て特権的にふるまえるのって、彼らが戦争に行くからですよね。古代のポリスもそうだったと思いますし、家内奴隷なんかも、彼らが戦争で勝ったことで連れ帰ってきた敵の兵士だったりするわけでしょう。

男女平等に、女性も公的世界で同様に輝けるとしたら、それはやはり「女性が戦争に行くこと」によってでしょうが、そんなのは男性が許さないでしょう。女性には産むという「特権的仕事」もある。

なので、前近代的な、公的領域と私的領域が明確に区別された「人間的」世界を肯定するとき、それは同時に、男性による女性支配に対しても実質的に同意署名したことになると思うんですが、アーレントはそれでいいんですかね? 彼女がそれでも自ら戦争に行く、子どもは男が産んで育てろ!というなら僕も(いろんな意味で)黙るしかないですが。

それとも、彼女が無責任にただ皮肉というか放言を吐いているだけだとしたら、この書物は、ニューヨーク左派知識人界隈でモゴモゴ蠢いているだけの、無意味な言葉遊び、無益なおしゃべりの域を出るものではない、そんないくぶん残念な評価に傾かざるを得なくなってしまう。


とはいえ、〈労働〉を分析する第三章において、アーレントは最後に「消費社会」という補助線を導入することで、ポスト産業社会も見据えて、「必要から浪費へ」の経済のシフトを捉えていたことになる。言葉だけじゃなく、彼女が語っている実質の中身も、現代の(過剰な)サービス労働社会の風景と根本的に違うものではありませんし、研究ノート(1)で指摘した、「アーレントは産業社会の風景を前提にしてないか」という疑問は、ここで少し修正される必要があるでしょう。


東アジア儒教文化圏との比較

第四章の制作論に入っていきます。

この辺で、アーレントは家の比喩で世界と物の持続性について語っていますが、

『活動的生』あるいは『人間の条件』が書かれた1960年前後、レヴィナスも「分離された存在」というテーマで、家の生成と自己同一性の担保のプロセスを詳細に語っていましたし、やはり、ハイデガーの影響を受けてか、家という保守性にもう一度スポットライトを当てる、その重要性を再確認するという問題意識が高まっていたんでしょうかね。

その上で少しコメントしておきたいんですが、家の重要性ということをいえば、いわゆる「東アジア儒教文化圏」は外せないわけで、

そこでは、「家を統治するように、天下国家も治めないといけない」というテーゼが、孔子以来伝統的にあるわけですよ。家も治められないヤツが天下国家を上手く治められるわけがない、というノリです。

ここは、アーレントが描く古代世界との相違点として一応確認しておけるんだと思います。つまり、古代ギリシャでは、家と国家は別々の原理で運営されていた。家は労働と消費の領域で、国家(公的領域)は〈行為〉の領域だった。家は専制的な暴力が支配する場である一方、国家は、対等な市民同士が競争的に己の卓越性を主に言論で示し合う場であった。

欧米的文脈では、家と国家は対立的な関係で理解されるのに対し、東アジア的文脈では、国家が家の延長線として理解される。

というか、もう「国家」という漢字を使ってる時点で、我々東アジア文化圏の人間は、国を家の比喩で表象することを運命づけられているようなものなんですよね。共和国とかStateって言われてもしっくりきませんしね。

あるいはまた、近代になって、ヨーロッパ諸国は、私的領域と公的領域の区別が曖昧になり、一切が「社会化」することによって、東アジア的な「家=国家」のスキームに近づいた(ようやく追いついた)と解釈してみるのも面白いかもしれません。

なお、正確には「東アジア」ではなく「北東アジア」とでも言った方が的確かもしれないということも言い添えておきたいと思います。(つづく)

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